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中央日報 - ペ・ミョンボク コラムニスト大記者 インタビュー

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  • 2018.09.06 19:01

 

 

 中央日報                                                2018  7 14

 

 

 

 INTERVIEW  [ペ・ミョンボク コラムニスト]   作家 李承信

 

                                                 

                 ペ・ミョンボク コラムニスト大記者           

 

 

 

ジャパンパッシングは韓国にも損...

·中ほどに日本も必要

 

 

初夏のひとすじの風のように彼女は私の前に姿を現した。どことなく涼やかさが感じられた。録音機の上に彼女の言葉のひとかけらが破片のように散りばめられる。思考の速度に言葉がついていけないようだった。白と青があわただしく交差する陽ざしのもと、夏の木の葉は緑したたり、どこからか鳥の声も聞こえた。二時間半がたちまち過ぎた。

 

人はおよそその仕事に規定される。仕事がその人を定義する。李承信。詩人にして随筆家、本を書いて直接出版までするので著述家兼出版企画者であり、テレビ放送にもかかわっているので放送人でもあるが、質問と答えの果てに李承信を枠にはめて規定することは無意味だと感じた。彼女にとって文字や言葉は道具に過ぎない。小さくは韓国と日本の友愛、大きくは世界平和を具現するための手段であるに過ぎない。“平和運動家”が彼女にふさわしい呼称かもしれない。

 

 

   日本人は心を高度に重視 

 

 

 

李承信は、「京都に行けば朝鮮半島から海を越えていった祖先の手が感じられる」とし、「自身の文化として昇華させた日本人の努力にも頭がさがる」と語った。                                                                     写真 – キム・ギョンビン記者

 

 

発端は日本の古都京都だった。十数年前、私は京都23日で訪問する機会があった。そのとき受けた印象はあまりに強烈だった。それで‘20055月京都の思い出’というコラムも書いた。

一ヶ月前に運命のように私の手元に舞いこんだ一冊の本が、かすみかけていた京都の思い出を呼び起こしてくれた。

 

 

なぜ京都なのか?

 

 

李承信は最近、京都の同志社大学での晩学で古典文学を学び、そのとき体験した京都をなぜ京都なのか?という本にまとめた。それを読んであちこち聞きまわって連絡先をつきとめ、インタビューの約束をとりつけた。割り当てられたロッカールームを使ったあとさえ残らないようきれいにかたづけていったロシアワールドカップのサッカー日本代表チームと、日本が負けたにもかかわらずゴミ袋まで持参してまわりをきれいに掃除して去った日本応援団が、世界のメディアで話題になっていたころだ。

 

Q 日本代表チームとその応援団に世界の言論の賛辞が降り注いでいます。

 

「それを見て驚いていることにもっと驚かされます。日本人のそのような行動は今にはじまったことではありません。ニュースのネタにならないのです。日本のどこにいってもゴミはおろかホコリひとつ落ちていません。1年中そのように生きているのが日本人です。」
 

見た目はきれいでも、いざ中に入るとそうでもないという話も聞きます。

 

本音と建前のお話のようですが、少なくとも私が知っている限りそのようなことはありません。家の中もきれいにして住んでいます。たとえ表と裏があったとしても、見た目に清潔で、表向きは親切で丁寧な態度をとることが悪いことであるとはいえません。」

 

李承信は大学生のとき、国際青少年会議に参加するため日本を始めて訪問して以来、100回以上日本に行っている。2015年から1年半は、日本の古典文学を勉強するために長期滞在しもした

 

日本のサッカー代表チームに賛辞ばかりがあったわけではありません。グループステージでの最後の競技で終了を前10余分間ボールを回す‘お散歩サッカー’で批判をたくさん浴びました。

 

「監督の立場としては16強への進出がもっと重要だったのでしょう。そのために監督は批判されてもボールを回す選択をしたのであり、選手たちはそれに従ったのです。他の国の監督でも似たような選択をしないでしょうか。」
 

訪問者としての京都に対する印象を‘胸の奥の遥かな故郷のような感じ’とおっしゃっていますが、いざ住んでみていかがでしたか。

 

「世界の人々が感嘆する京都の古色蒼然とした建築物と遺跡地をみるたびに、朝鮮半島から海を渡っていった私たちの祖先たちの手を感じます。何日間かの訪問だけだったら今もそれが全部だったでしょう。京都で過ごしてみてそれが全てではないことに気づきました。朝鮮半島から渡っていった私たちの祖先とその後裔たちがつくり、教えたことは事実ですが、それを保存し、新しいもののために古いものを壊すことなく粘り強く命脈を保ちつつ、自らの文化として昇華させてきた日本人の見事なほどの成就と努力、その精神に頭を下げざるをえませんでした。」

 

つまり、韓国ほどに日本も素晴らしいということですか.

 

「玄海灘を越えてこのような偉大な文化を成した祖先のDNAが、私たちの中にあるという気づきは、戦慄であり自負心です。吏読と鄕札からなる私たちの鄕歌と俗謡に由来する短詩が日本で短歌として発展し、日本人がこんなにも大切に思う文化遺産となり、フランス、イギリス、アメリカのような先進国では、学校でそれを教えてもいます。私がぜひともいいたいのは、祖先のそうしたDNAを私たちは持っているので、その気にさえなれば、日本以上にうまくやれるということです。」

 

根っこはずいぶん重なっていますが、今韓国と日本はかなり異なっています。

 

「たとえば、韓国人はありがとうという言葉を一度だけ口にしますが、日本人は相手がもうやめてくださいというまで五回でも六回でもお辞儀します。いとこもまたいとこも会わずにいれば遠ざかるように、歳月が流れる中で互いに遠ざかり変わってしまったのでしょう。しかし、歴史を知っている日本人は自身の根に韓国があるということを認めています。」

 

 

    百済の流民20万人が玄海灘を越える

 

 

  

  花だけの春などあろうはずもなし

 

 

明治維新で1869年に東京に遷都するまでの約1100年間、京都は日本の首都だった。日本で七番目に大きな都市である京都には、寺刹だけでも1600軒を越える。故宮と遺跡地も多い。桜と紅葉の名所としても有名だ。情報技術(IT)等の先端産業のメッカでもある。京都大学は科学分野で10名のノーベル賞受賞者を輩出しもした。

 

日本には東京があり大阪もあるのに、よりによってなぜ‘京都’なのですか。

 

「日韓関係が好くなることを願って、京都を接点としてみたのです。京都にいけば韓国からは消えてしまった遠い昔の故郷が感じられ、その都市と文化をつくるのに大きく寄与した百済と高句麗、新羅と伽耶人の息吹が感じられます。弟に教える兄の大きな心で日本を抱き、根をともにする隣国日本と手をとりあって未来に向かわなければなりません。京都に行けば私たちが目指すべき日韓関係の未来が見えます。」

 

言葉だけでは何にもなりません。日韓両国が好い関係になるには、どのような実践的努力が必要でしょうか。

 

標稼ぎしか頭にない政治家にだけ期待するのではなく、両国の人々が会って心と心でやりとりすることが重要です。あれこれの繋がりで日本と個人的な縁のない韓国人はほとんどいないはずです。日本での晩学で今更ながら気づきましたが、日本人は本当に‘心’を大切にします。私たちが伝えた仏教の影響かもしれません。その昔、私たちの祖先たちがそうだったということです。私の母が‘切実な望みが一つ吾れにあり諍いのなき国と国なれ’と詠んだ短歌の一行には、人生そのものを抱いてきた切々たる心が込められていると思います。」

 

2003年に逝去した李承信の母孫戸妍は、日本の伝統詩である短歌歌人として韓国よりも日本でよく知られている。2000首を越える作品をした31音からなる短歌は、17音からなる俳句とともに、日本人が最も大切にしている文学ジャンルだ。孫戸妍は日本の天皇から短歌の大家として皇居に招請され、韓国の歌人である彼女の短歌を愛する日本人たちが、その歌碑を青森の六ヶ所村に建てた。

 

 

    京都で私たちの祖先の息吹を感じる

 

その切実な思いが互いに一つにならねばならないのではないですか。

 

「そうです。両方とも互いに心を開き、心で向き合わねばなりません。ことあるごとに出会い、交流しながら互いを理解しようと努力しなければなりません。」
 

民間交流が重要だということですか。

 

「私たちも日本も互いに互いの歴史を知らないことに問題があります。歴史を歪曲することはもちろん過ちです。根っこをさかのぼれば韓国と日本は切っても切れない関係なのです。663年、白村江の戦いで日本の支援を受けた百済の復興軍が新羅唐連合軍にやぶれ、日本に渡っていった百済の流民だけでも20万人いたといいます。王族と貴族はもちろん、学者、高位官僚、知識人から、職人と技術者、一般の民にいたるまで多様な階層の流民が海を渡り、日本に先進文物と文明を伝播しました。

こうした歴史を互いに認め学びあう姿勢を持たなければなりません。そして、両国の関係を長い目でみなければなりません。嫌いだからといって引越しできるわけではないのですから。首脳会談や政治家の努力で両国関係が好くなることを待っていたら、歳月だけが過ぎてしまいます。互いにとって損です。何度も会って心と心が通じれば愛が芽生え恋をするように、日韓関係もそうならなければなりません。」

 

今、政府にいいたいことがあれば。

 

「私たちが統一された先進国になるためには、日本と手を結ばなければなりません。アメリカの圧力によりいやいや手を握るのではなく、自発的かつ積極的に手をとるべきです。それは私たちにとっても利益です。今は北朝鮮にオールインする一方で、日本を無視して放置してパッシングする雰囲気です。統一のためにはアメリカと中国も重要ですが、日本も必要です。文在寅大統領は金正恩委員長に日本の総理とも会うことを薦めなければなりません。私たちがそうした心を持って努力すれば、日本は心からありがたく思うはずです。」

 


 

  

20年間米滞在アメリカ通にして日本通

年齢は明かさないのが原則

 

李承信はもともとはアメリカ通だ。梨花女子大の英文科を卒業後、留学20余年間アメリカに住んだ。2011年の東日本大震災のとき、傷心の日本人を見つめ、心で詩を書いたことが日本通として知られる契機となった。‘花だけの春などあろうはずもなし’というタイトルの詩集は、日韓両国でベストセラーとなった。詩集‘息を止めて’をんだ朴槿惠前大統領が、李承信に直接電話をしてきて感動を伝えたというエピソードがある。大統領になる前のことだ。

 

「最初はちょっと負担に思ったことも事実です。しかし、世界を経験して勉強することで生じたグローバルな眼識で見た方が、日本だけを深く掘り下げるよりも日本をもっとよく見ることができるのではないかと思います。」日本通として知られることを負担には思いませんかという質問に対する答えだ。平壤出身で高位公職に携わった亡父から、“何をするにせよグローバルな眼識をもってグローバリーにせよ”という言葉を幼いころから聞いて育ったという。

 

彼女はインタビューに際して年齢を明かさないことを原則としている。よい趣旨の発言でも年齢が邪魔をし、その意味と内容が歪曲されたり、読者が偏見を持つことがある、というのがその理由だ。

 

 

                          ペ・ミョンボク コラムニスト·記者  bae.myungbok@joongang.co.kr

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











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