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百年の明日 ニッポンとコリア)海渡る文化:中 民族宿す三十一文字

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  • 2013.09.15 22:02

 

百年の明日 ニッポンとコリア)海渡る文化: 

民族宿す三十一文字  

 

日本の伝統的な文学表現である短歌。その三十一(みそひと)文字に自らの思いを込めた2人の韓国人女性がいる。ソウルの故・孫戸妍(ソンホヨン)さん(1923~2003)と、三重県伊賀市の李正子(イチョンジャ)さん(63)だ。生い立ちも作風も異なる2人の歌人が、短歌でしか伝えられなかった思いとは何だったのか。 

(桜井泉) 

 

苦境生き、平和を願う

 






                 <切実な願いが吾れに一つあり争いのなき国と国なれ>

 

2005年6月、ソウルで盧武鉉(ノムヒョン)大統領と会談した小泉純一郎首相は

、記者会見に臨み、孫戸妍さんの短歌を披露した。
国交正常化から40年、この年は「日韓友情年」と銘打たれたが、両国の間には暗雲

がたれ込めていた。3月に島根県で「竹島の日」をつくる条例が成立すると、韓国側は

猛反発。靖国神社参拝の意思を変えない小泉氏に対しても批判が渦巻いた。 

 そんな中で、小泉氏はこの歌を取り上げた。日韓の厳しい時代を生き抜いた孫さんの

思いがこもった歌に、心を打たれたのだろうか。

 

 

 孫さんは日本が朝鮮半島を植民地支配していた1923年、東京で生まれた。父は早

稲田大学で法律を学んでいた。一家は間もなく朝鮮に帰った。
37年に日中戦争が始まり、朝鮮では人々を戦争に動員するため皇民化政策が本格化

する。学校では日本語教育が徹底され、子どもたちが朝鮮語を使うと教師から罰せられ

た。
高等女学校を終えた孫さんは東京の帝国女子専門学校(現・相模女子大学)に進む。

そこで短歌と出会い、歌人の佐佐木信綱から指導を受けた。朝鮮に戻って家庭科教師に

なった孫さんは45年、植民地支配からの解放を迎えた。
植民地時代をどんな思いで過ごしたのか。後に当時を回想し、複雑な胸中を吐露した 

 

              <もう一つの祖国を胸に秘めながら日の丸の旗振りし日のあり>

 

 

解放から3年後に韓国が建国され、独立運動家だった李承晩(イスンマン)大統領が

反日政策を進めると、日本語世代への周囲の目は厳しくなった。孫さんの長女、李承信

(イスンシン)さんは「日本語を学ばされた母は、日本語でしか繊細な表現ができない

。解放後には、なぜ敵の言葉を使うのかと非難された。その悲しみはいかばかりだった

か」と振り返る。

 

 

  それでも、孫さんは歌を詠み続けた。短歌の師、佐佐木から「日本の歌をまねず、朝

鮮の美をうたいなさい。何があっても途中でやめてはいけない」と教えられていたから

だ。
 仕事でソウルに駐在していた95年に孫さんと出会い、その半生を描いた「風雪の歌

人」を出版した北出明さんは、孫さんが「短歌の道はいばらの道で孤独だった

」と講演で言葉を詰まらせたのを覚えている。そして、「日本の時代に生まれた私たち

の宿命です」と何度も繰り返したという。

 

 

  だが、孫さんの活動は晩年になって評価され始めた。98年に宮中歌会始の儀に「陪

聴者」として招かれ、02年には日本の外務大臣から友好親善に寄与したとして表彰さ

れた。韓国でも00年に花冠文化勲章を受けた。
 

 

  解放後まもなく生まれた娘の承信さんは、日本語を知らないハングル世代だ。若いこ

ろは母の短歌に関心はなく、反発を感じたこともあった。だが今、日本語を学んだ承信

さんは、母の短歌を韓国語に訳し、その思いを伝えている。

 

 

<隣りいて胸にも近き国なれと無窮花を愛でて桜も愛でて>

 

 

  韓国を象徴する無窮花(ムクゲ)と日本を表す桜。「両国の関係が難しいときこそ、

韓国と日本に育まれた母の歌が、人の心を動かすのです」

 

 在日2世、差別に怒り

 

 在日2世の李正子さんは短歌で民族をうたってきた。祖国を奪われ、異郷で暮らした

父母の歩みを詠み、理不尽な差別を告発する。歌に込められたメッセージはときに激し

い。
 
                <下関より青森までをさすらいし飯場人夫の父と知るのみ>
 
父は日本が韓国を併合した1910年、南部の晋州で生まれた。19歳で日本に渡り

、梨農家で働いたり、港湾作業をしたりした。つらい体験は黙して語らず、戦後は布団

の綿打ちを仕事にした。母は8歳の時に家族で日本に来て、やはり厳しい生活を送った

 
        <朝鮮の母より文字を奪いたる「亡国」「貧困」それぞれの二字>
 
 李さんが短歌に出合ったのは中学2年の時。授業で若山牧水らの歌に触れた。「歌っ

てきれいやな」。見よう見まねでつくり、ノートに書きためた。
 18歳の誕生日に両親が民族衣装のチマ・チョゴリをつくってくれた。「これで日本

人と間違えられない。チョゴリの私、似合うわ」。晴れ晴れとした気持ちで田舎道を歩

いた。20歳のころ、その思いを「朝日歌壇」に投稿し、故・近藤芳美さんの選に入っ

た。

                <はじめてのチョゴリ姿に未だ見ぬ祖国知りたき唄くちずさむ>
 
投稿は香山正子という日本名だった。だがやがて、「歌がうそにみえる」と本名で投

稿するようになる。「名前は一つしかないんや。人間は」
 
近藤さんに励まされて初めての歌集を出したころ、在日同胞からは「短歌で民族をう

たうなんてあり得ない」と批判を浴びた。「奴隷の文学」と酷評する文学者もいた。
 
  <〈偽善者〉と告げくる手紙読む窓にあかねの彩(いろ)のうつろいており>
 
80年代、在日の人たちの間で外国人登録証に指紋を押すことを拒否する闘争が広が

った。李さんも拒むと、刑事が半年にわたり毎日、自分の店に来た。嫌がらせの電話も

かかった。
 
           <友のゆび子のゆび吾がゆび罪もたぬゆびがなにゆえ虐げられぬ>
 
 押捺(おうなつ)拒否に、意外にも父が怒った。「日本にいるんだからそんなことし

たらあかん」。戦後、地元に民族団体をつくった父がなぜそんなことを言うのか理解で

きなか 

  大阪などと違い、周りには在日同胞も少なかった。「私の気持ちをどうしたら分かっ

てもらえるのか」。そんな思いを短歌にぶつけた。
 昨年、政権交代で民主党政権ができたが、期待された永住外国人への地方参政権付与

問題は忘れ去られたかのようだ。
った。
 
               <百年を棲みつつ五世が生まれるに市民権なき民とし在れば>


写真説明】

(上)青森県六ケ所村にある歌碑の横に立つ孫戸妍さん。孫さんの歌に魅せられた人た

ちが97年に建てた=附田義美さん提供
(中)孫さんの思い出を語る長女の李承信さん=ソウル
(下)歌集を前に語る李正子さん=三重県伊賀市、いずれも桜井写す

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