カルチャーエッセイ

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あのときも知っていたなら

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  • 2014.12.12 12:32
李承信ので書くカルチャーエッセイ


                                                                                                                                    2014  9  29

 

                                                  

あのときも知っていたなら

 

母校を訪ねた。

 

訪れるたびに驚かされるのは、学校とは無関係な梨大前の商店街がますます勢いを増していることと、その煩雑でめまぐるしい商店街を通ってキャンパスに入ると、外の世界とは全く異なる雰囲気で安定しており、まるで大きな空気に包まれているような広々とした気分になれることだ。

 

家の修理をするのに時間も予想より長くかかるだけでなく、予算も見積りより何倍もかかるとのことで気がもめていた。そんなとき母校に足を踏み入れると、驚いたことに心が静まり、落ち着いてくるのを感じた。

 

今でこそ家から近い距離だが、社稷トンネルができるはるか以前は、大学に行こうとすれば世宗会館前まで10余分を歩き、61番バスに乗って西大門、阿峴洞、新村を過ぎ、鳳峴洞の梨大後門まで回りに回ってひとしきりかかった。英文科の授業がいつも後門わきのC館で行われたからだ。

 

今度は前門の方へ行ってみた。

昔は囲碁おじさんという写真を撮ってくれるおじさんがいて喜んで迎えてくれた。携帯で思いのままに写真を撮れるこの時代に今なお彼がそこにいるはずもないが、もしやの思いに立ち寄ってみる。

 

大門がなくなった場所。左側の壁に梨の花を一つ一つ焼きつけた大きな陶磁器作品がある。中国人たちに梨の花の学校(梨花女子大学)に行くと幸せになるという噂が流れ、その梨の花にさわるために中国から人々がやってくるという。実際にその作品を背景にたくさんの人々が写真を撮っていた。

 

月、水、金ごとに礼拝をあげたチャペル、クラシックはもちろん全盛期のクリフ・リチャード、チェ・ヒジュンまで、数多くの公演が行われた大講堂が目に入ってくる。そこに行くまでに数百段の階段を昇ったような気がするが、改めて数えてみるとわずか45段だ。

 

右側のマスゲームと大きな行事を行った運動場が、世界的なフランスの建築家が建てた地下6階の独特な建物に変わっていた。ECCの建物起工式の際、その建物に関する短詩をつくり、それを3ヶ国語で筆書きして額に入れたものを、スカーフをおしゃれに巻いた建築家ドミニク・ペローに渡すと、溢れるような笑いをこぼして喜んだ。世界の建築学徒及び建築に関心をもつ人々が訪ねてくる名物にはなりはしたが、開校記念日にキム・ファルラン先生やキム・オッギル先生の殷々とした音声が聞こえてきた素朴な昔の運動場も私には懐かしい。

 

秋色に染まろうとしながらもまだ青さを残した木の葉を見つめ、私の青春はどこにあるのか、あのときの夢は実現しているか、あれから後、道を教えられた通りにまともに歩んできたかと、いろいろな思いが浮かぶ。

 

大韓民国女性弁護士第1号にして女性人権運動家であり、法学部学長を務めたイ・テヨン博士(1914-1998)の生誕百周年記念学術行事が法学部にてあった。

 

彼女はこの時代もが必要とする女性リーダーシップの標本だ。学問においてだけでなく、街頭で法廷で社会の民主化のため、人権のために先頭に立ち、家族法、両性平等法、家庭法律相談所等、自身が推進した仕事が普遍化すると、また別の新たな社会プログラムのために先頭に立った。

 

ジャン・ミョンス梨花女子大学理事長が記憶するエピソードの中には、イ・テヨン先生が法廷で女性を弁護しようとした際、向いの夫が「いやなに、男がちょっと妾を囲ったというわけで」と言って自ら罪を認めてしまった笑えない話や、後輩たちにとっては後々血となり肉となりはしたが、小言が多かったというものがある。

 

ご子息のジョン・テチョル顧問が記憶する三つの逸話もある。

1943年、獄中の夫に差し入れしながら先生が家でジョン顧問を生んだ際、鋏が非衛生的に見えたので外叔母が歯でへその緒を噛み切ったこと。先生は鋏で布を切り刺し縫いの布団を作って売り歩いたが、質のよくない鋏で切つ続けたので右手の親指が大きくねじれてしまったこと。そして、師大附属国民学校(小学校)時代の生徒会長選挙の際、選挙権のある456年生全600名の前で行った先生の雄弁かつ能弁たる演説のおかげでジョン顧問が生徒会長に当選したことだ。

 

私にも浮かんでくる思い出がある。キャンパスでもお目にかかったが、1987年に家庭法律相談所を開くためにワシントンに来られた先生に1時間ほどのテレビインタビューをしたことがある。阻害された庶民と女性に向けられた献身とその熱き胸の情熱は感銘深いものだった。先生の故郷である平安道には今なお先生のような女性がいるのだろうかと思った。

 

インタビューの後、参政権を剥奪された夫ジョン・イルヒョン議員に代わり、ソウルで国会議員選挙に出る息子を推してくれと、アメリカにいて韓国に投票できない私に向ってさえ力の限り熱弁をふるったその姿が深く印象に残っている。

 

私にくださった暖かさを記憶し、130年の歴史を持つ母校を歩く。私たちの前にはこんなにも模範とすべき方々がおられたのだと感謝の思いがわく。

 

歳月の速さと儚さ、二十歳の青春は二度と帰らない。恩師が大人たちが必死で伝えようとした智恵の言葉に耳を傾け、胸に刻みつけなければならなかったのに。広い世界と未来に向かって飛び出したはずが、結局はまた帰ってくることになる世の中の道理に思いをはせつつ、高くなった空を仰ぐ。

 

 

 

 

                今知っていることをあのときも知っていたなら

               どれほどよかったか

 

               壁に傷をつけて背丈をはかるように

               同じ背丈でも

               心が少しずつ大きくなったろうに

               それでも目を開かれる

               母校の校庭

 

               この秋

               あの大きな木はどのような実をつけるのだろう

               私たちはまたどのような実として熟しゆくのだろう

 

  

                  

 

 

 

                                梨花女子大生とチャペル、数多くの思い出の公演があった大講堂 - 2014  9  24


懐かしのキャンパスの運動場に建てられた世界的建築のECC


 母であるイ・テヨン博士生誕百周年学術行事でのジョン・テチョル顧問 

   

 囲碁おじさんと正門がなくなった梨大の前で、梨の花の作品を中国人が携帯で撮ってくれた - 2014 9 24

            

 

 

 

 

 

 











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