家の近くにある青瓦臺(大統領府)の正門の向い景福宮の北門にふらっと入ってみた。
太い銀杏の街路樹がきれいに並んだ青瓦臺(大統領府)の前の道はよく歩くが、その右側の北門である神武門を入るのは久しぶりだ。チケット売場に誰もいないので変だと思ったら、毎月最後の水曜日は無料とのこと。こんなふうに市民の利用を促しているのに訪れる人はあまりいない。
それを見慣れた人にはそうであるように、いつも目にする風景は気にも留めなかったり、 いつでも見に行けるからといって先延ばしにする傾向があるせいか、李氏朝鮮時代の王宮である景福宮は家のすぐそばにあり、幼いころからの思い出があるにもかかわらず、あまり足を運ぶことはなかった。
六百年前に建てられた景福宮の中には500棟の建物があったというが、日本の帝国主義時代に多くは撤去された。ここには朝鮮総督府がありもした。今はなくなってしまったがかつて中央庁と呼ばれた建物のホールではわたしの両親が当時には珍しい結婚式を挙げもした。
慶會樓の池の前に立ち並ぶ枝垂れ桜は実に美しく、見に行かねばと思いながらこの春もタイミングを逃してしまった。
青瓦臺を前景とする北岳山の威容を眺めながら、慣れ親しんだ神武門を抜け、左手のくぐり戸に入ると、高宗皇帝が書斎兼外国使臣の接見室として使ったという集玉齋と八隅亭が見える。現代式のアパートは何十年かすれば取り壊されてしまうが、二百余年も経つこうした木材建築が今なお健在であることが不思議だ。セメントもコンクリートも鉄筋もなしに建てられた建物を眺めながら、当時の先祖たちのことに思いをはせる。
ところで、この晴れ晴れとした春の日により一層目をひくのは、集玉齋の右手にひろがる牡丹の花畑だ。美しいのは当然だが、その香りがとてもよく私をひきつける。誰もが好むというわけではないだろうが、私を育ててくれた外祖母が特に好きだった花だ。手ずから植えもした牡丹はその色が尊いのだといいながら、箪笥から新しい紙幣を取り出してお小遣いもくれた。まだ小学校にもあがる前の幼いころの記憶が鮮明だ。
德壽宮に牡丹の花畑があるのは知っていたが、景福宮の北側にもそれがあるのは知らなかった。期待もしていなかった美しさと豊かさにただ驚かされ、その香りが私の足を止めた。
写真を撮って友人たちに送り、色も格別だが香りが素晴らしいと伝えると、牡丹は香りがない花よという。スマートホンで香りも伝えられないことが残念だ。
奥ゆかしく慇懃としてとても高級な香りだ。広い宮中の跡を散歩しようと入ってきたのに、この花畑にひかれそのまま座り込んでしまった。
富貴の象徴であり、古い芸術作品でよく好まれ、とりわけ中国が愛するという牡丹は、薄いピンクや白も純粋そうでいいが、赤紫のそれは尊く品位が際立っている。桜のようにすぐに散ってしまうことはないが、次に来たときにはもう見れないかもしれないので、座りこんでその姿と香りと雰囲気にひたった。
母のことも思い出す。
弼雲洞の築三百年以上の古住宅が開発で取り壊され、新しく建て直さなければならないのに、数十年の暮らしの荷物は多く、すぐに仮ぐらしできるあてもなく悩んでいると、母を尊敬するという愛読者が舊基洞にある空き家を貸してくれることになった。北漢山の入り口近くで前には小川が流れ、目を見上げると山頂の紗帽岩が見え、広い庭園があった。ライラックなどの花がたくさんあったが、私の誕生日には牡丹の花を胸いっぱいに抱えてきてくれた。香り高い赤紫色の牡丹だった。
牡丹は5月に咲くというので、母が亡くなってからは德壽宮の牡丹畑を見に行きもした。それが偶然、何の計画もなしに景福宮に入り赤紫色の牡丹の花をこうして見ることになろうとは。不思議でしかたなかった。
しかし、考えてみればそれは偶然ではなく、誰かが肩を竦めてしまった私にその‘花の瞬間’を見せようとしたのだと思われてきた。私には見えないが誰かが元気を出せと応援してくれている証しであるのかもしれない。
常に目に見えるものよりも見えないものの方が意味があり深いのだ。
朝鮮の美を備えていたという明聖王后が日本の刺客に殺害された重い歴史をもつ坤寧閤の塀を隔てて咲いたこの玲瓏とした美しさをプレゼントされた今日は5月7日、私の誕生日だ。
考えてみれば