カルチャーエッセイ

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二人の父親の物語

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  • 2021.11.27 19:31

 

 

  聞慶セジェ                                                                                                 2021 11 22 

   

 李承信の詩で書くカルチャーエッセイ

 

  二人の父親の物語 

 

 

例年であれば雪嶽山で一泊したあと、京都に向かっていたはずだ。

どちらにも行けないままずっとソウルにいた。

 

ソウルと中部は紅葉の見ごろを過ぎたというが、詩調詩人の先輩の招きで後輩二人と中部の忠州に行くことになった。心のこもった食事でもてなしてくれ、水安堡ホテルに部屋もとってくれた。

 

水安堡… 20年を遙かに超える時が過ぎた。

アメリカにいたころは夏休みや冬休みに、帰国後は母とともに長湖の大きな山に一人眠る父の墓を訪ねに

 

  墓原のしこ草をのみせめて抜く亡夫に仕へることのあらなく

 

  結ばれて四十年足らず君失せて忘るるまでは百年千年

 

韓国で障害短歌を詠んできた母の短歌が、‘日本列島の琴線に触れる’として日本で注目されるようになったのは、父が亡くなった後に出した歌集‘第四 無窮花’の影響だ。母が有名になるかわりに父が生きていたらと私が願う所以でもある。 

  

たくさんの方が私がつくった韓国語版をみては、その愛の切情を褒めてくれ、業界では名のある放送局の後輩PDも、「こんなにも果てしなくその心情を吐露させる父親がいるとは、どれほど素晴らしい方だっただろう」と言った。間違ってはいない。

 

私はときどき考える。

父と母、二人のうちどちらのおかげでこんなにもよい関係が築かれたのかと。一方だけ素晴らしければこうなったはずだと思う。しかし、いい大人になって世の中のたくさんのものを見た今、改めて考えてみると、客観的に二人とも同じように素晴らしかったせいだという結論をくださざるをえない。

 

私の見た父は、地上での命の短さだけを除けば、すべてにおいて完璧だったと思う。百歳の白善燁将軍も「あらゆる分野に卓越した平壌師範の先輩を尊敬しています」と常におっしゃってくださった。

  

 ふりかへり又ふりかへり山降りる侘しき山に君のみ残し

 

お墓の前では雑草をむしることしかすることがなかった。母よりは父のDNAを感じる私は、母の心が痛まないようにと悲しいそぶりはみせなかった。

寂寞とした自然に中に父を残して山を降り、水安堡に行って山菜ビビンパを少し食べて温泉によった。たまに近くのワラビ村に住むキム・オクキル梨花女子大学総長に会いにいきもした。 

 

わざわざ父のためにと大きな山を買い求めてお墓を建てたのに、下にある共同墓地の方が寂しくなかったかもねと残念がった母も、早いもので父のそばにいってしまって20年になる。水安堡に泊まり、あのとき母とともにした時間が昨日のことのように思い浮かぶ。

 

先輩が落葉した月岳山やあれこれが見えるとうので行った聞慶セジェを、歩いて過ごした半日がとても印象深い。ほとんど紅葉は終わりかけているのに、セジェには何本かの木が残り、陽をうけて青い空を背景に光る赤色が眩しい。

 

科挙試験のために漢陽に行こうと思えば、この聞慶セジェを越えなければならなかった。ソンビ(士人)にでもなったかのように背を伸ばして歩く峠道は爽快だ。一年を通しても珍しいのどかな光が広大な景観を美しくしている。

 

しばらく歩くと右側の大きなプレートに“デソン産業私有林”とあり、その下に“自然生態系清浄林地域として後裔のために永久に保存する”と書かれていた。主屹山へと続くこの長々とした道が私有地だとは。

 

数十年前のおぼろげな記憶が蘇る。幼かったころ友だちの家でのことだ。いっしょに来た後輩は私有林と書かれているのに国立公園だと言い張った。途方もない規模なのでとても私有林とは思えないからだ。

 

大邱から転校してきたばかりの中学時代の友だちが住む敦岩洞の家によく遊びに行った。友だちの父親が部屋に入って来たかと思うと「お父さんのお名前は」といった。幼い私は誰かにそんなことを聞かれたのは初めてだったし、大邱から来たばかりの人が父の名を知るはずもないと思いながら答えると、「ああ、よく知っている人だ」と言って喜んでくれた。そのときの明るい表情を今でも覚えている。ずっと後になって考えてみると、父が平壌からソウルに来て高等考試を経て得たのが商工部の燃料課長の職だったし、友だちの父親は大邱で石炭会社をしていたので、知り合う機会もあったのだろう。当時も世の中は狭かった。

 

その後もときどき会う機会があり、満面に笑みを浮かべて聞き取りやすい声で話すので、懐の広い方という印象がある。私は親子詩人の家が道路拡張のため縮小を余儀なくされた後、1階を賃貸に出したが借り手がつかなかったので、韓国初のフレンチレストランを兼備した芸術空間に作り替えた。この友だちの父親はそこが私の家であることも知らずに息子たちを連れてよく訪れた。

 

まさにこの友達の父親が、鉱産業のためには坑木が必要だといって、山林緑化に対するビジョンをもって52年前にこの聞慶セジェのある主屹山を購入した方だった。はげ山になってしまったこの国のために山林事業を起こすことに生涯を捧げた方だ。そのおかげで、今こうして入場料もなしにたくさんに人々がこの美しい自然を歩き享受している。この山河は私の目にも国際級のものであり、国内観光の第一位にふさわしいが、その背後の意味に思いがいたると胸が熱くなる。

 

ひとりは平壌から満州を経てソウルに来て、もうひとりは大邱からソウルに来たという違いはあるが、徒手空拳で始まった波乱万丈の一時代を全身全霊で開拓してきたこと、そして、素晴らしい品格によってそれぞれが自身の分野で大成功をおさめたという共通点がある。

何よりも生まれた目的をはっきりと知り、価値があり意味のある人生を生きながら国のために素晴らしい足跡を残した二人の父親のことを思う尊い時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聞慶セジェ   2021 11 13


 

 

 

 

 



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