雨が降っていました。 雨の降る日には、町内の散歩には出ませんが、もうやんだと思って傘ももたずに出かけたところ、また降り出しはじめたのです。 家を出て、いったん立ち止まってどちらに行こうか迷いますが、その日は無窮花の園と青瓦臺(大統領府)の前の道が思い浮かびました。 道は二通りあり、路地を通って無窮花の園に立ち寄って道向こうの青瓦臺の方に行く道と、景福宮の方におりて景福宮の長い石垣にそって歩く道です。 朴正熙大統領が最後の夜を過ごした安家が、YS(金泳三元大統領)が大統領になると取り壊されて無窮花公園となり、気に入ってよく行きましたが、ちょっと前に無窮花の木だらけで鬱陶しいほどになっていました。人生にも心にも余白が必要なのだと今さらながらに感じます。 そんなことを思いながら景福宮の石垣の道を選びました。「市内の中心にこんなに風情のある道があるのに、なぜ歩く人が少ないのだろう」そんなことを思い、街路灯ごとに添えられた花籠と風にはためく太極旗とを見ながら歩きました。 すぐ前の大きな三角形がいつ見ても胸のすく北岳山を眺めながら、高級感のある石板の歩道ブロックをずっと歩いて右折すると、そこが青瓦臺前の道です。 青瓦臺の入り口まで続くその道は、世界的な基準でみても素晴らしいと思います。太い銀杏の木が立ち並び、野花も咲いてしっかり整備されたこの道を歩くと、少しは税金を出した甲斐があったという気になります。よく行ったホワイトハウス前の道のことを思い出します。市内の粗雑な歩道ブロックとランドスケープを思い浮かべ、ソウル市内の道がこの程度にさえなってくれればどれほどいいだろうと考えてみます。先進国でなければ王宮の前の道と一般の道には差があるようです。 ついに青い瓦の青瓦臺の入り口前に立ちました。 とても幼いころ、今より規模が小さかったですが景武臺(青瓦臺の旧称)に入ったおぼろげな記憶があります。母の没後にその‘平和の短歌’が鳴り響いたところでもあります。私の後ろには景福宮の北門である‘神武門’が立っており、ちょっと前までは中国人観光客たちでごった返していました。私たちにとって紫禁城が珍しく写真をとりまくるように、私には見慣れてしまった青瓦臺の姿を写真におさめながら珍しがっている姿を眺めたものです。 いまでは、立ち並ぶ警護員たちだけが、ここに立っている私を見つめています。 国家創建後、あの白い鉄の門の中の大統領の座を得ようと数多くの人々が挑戦した歴史があり、勝ってその座を得たものたちの歴史もあります。 光復節、開天節のような記念日には、光化門にデモ隊が押し寄せ、戦警(戦闘警察隊)たちとの小競り合いが繰り広げられ、噴水台の前には大きなプレートをかかえ「悔しくてなりません。助けてください」と叫ぶ一人デモをする人の姿が常にあります。 青瓦臺の入り口の右側にある職員用の通用門がすうっと開かれると、北岳山の麓の鬱蒼とした森がちらっと見えますが、ちょっと見にもソウルの中心地にしてはとても素晴らしい森です。その裏山からは漢江も見えるといいますが、MB(李明博元大統領)がそこから狂牛病デモを眺めたように、今の大統領もそこからデモを眺めるのかもしれません。 ところで、そこに入りさえすれば初心を忘れてしまい、外でひそひそとささやかれる陰口にも気づかないのはなぜでしょうか。 誰がなったとしても公約があるので期待は大きいのに、時間が経つと失望し、国民は次の選挙では野党候補に丸をつけ、その次になるとまた…、そういう繰り返しを住民として数十年間見守ってきました。 誰でも頂上に立てば、国の威容を改め、先駆けた先祖たちの献身によって築かれた土台をさらに先進国の基準に近づけたいと思うだろう。夜を徹して苦悩し奮闘することでしょう。この狭くなった世界で唯一の分断国家の代表者になることにはどれほど重圧感があることでしょうか。私たちがみた過去の大統領たちの運命と現大統領のそれを思い、この前に立つとどの時代であっても同情せざるをえません。 繰り返される苦痛と苦悩を見ながら、いったい誰が今度の大統領になりたがるだろうか、それこそとてつもない勇気だと思います。 そうしながら、名もなき小さな都市国家に‘リー・クアンユー’が現れ、音に聞こえた国家になったように、私たちも卓越した人物が登場し、画期的な戦略と戦術による変化が起こるのを切に待ち望んでいます。 先進国で長く暮らした目から祖国を眺めて常に感じるのは、ただでさえ小さいのに、分断され、地政学的に強大国に囲まれた韓国は、その経済のためにも強力な国際外交力を持たねば生き残ることはできないということです。 そのせいか、私のささいな散歩コースにおいても、特にこうして青瓦臺に向かい合うとき、さまざまな想念がよぎり、季節がせきたてる雨に濡れながらも、国と後世のために祈りを捧げることになります。 |