カルチャーエッセイ

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崔書勉の度量をもて

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  • 2020.10.12 09:03

 

 

 

景福宮の北關大捷碑                                                        2020 6 16 

                                                     

 

 

 崔書勉の‘度量をもて’

 

 

崔書勉先生が亡くなられた。

京畿道坡州市條里邑弩造里のハヌル()墓苑の家廟に埋められた。これまで墓標だけがあったここに、いまこうして先生が埋められるのにはわけがある。

 

紆余曲折の末1965年に日韓の国交が正常化し、同年日本大使として金山政英(19091997)が赴任することになった。誰よりも熱情的に活動した大使であり、一度など当時の朴正熙大統領から、駐韓特命大使よりも駐日特命韓国大使になってはくれまいかと言われたほどだった。その彼に朴大統領が日本の佐藤栄作総理宛ての親書を託した。浦項製鉄をつくるため技術協力を要請する内容だった。

 

佐藤総理はもちろん、当時日本の財界総理として知られた新日本製鉄の稲山嘉寛会長も、ネジひとつろくに作れない国に製鉄所とは、と反対するのを説得し、ついに浦項製鉄への支援が実現した。これには金山大使の功が絶大だった。

 

金山大使は韓国から帰国後、外務省の高位職を断り、日韓親善に献身することを心に誓った。日本はアメリカ、ロシア、中国、イギリスとの外交をうまくやれば成功だと考えるだろうが、4強との外交をいくらうまくやっても、韓国との関係がまずければ日本の外交は失敗だという信念を持っていた。

 

当時、東京で韓国研究院を率いていた崔書勉院長は、研究院の内部に国際関係研究所をおき、金山氏をその所長に据えた。ある日、崔院長の母親の命日のため、崔院長とともに訪韓して、墓のあるハヌル墓苑を訪ねて参拝すると、「私も死んだら、この地に埋められたい。崔院長とこの世で日韓関係についてできなかった話を続けたい」と提案した。

 

そうして金山氏の墓標が作られ、1997年に氏が他界すると、東京から息子が遺骨をもってきて、そこに埋めた。詩人の具常が書いた碑文には 私は死んでも日韓親善を支え、見守りたいという彼の遺言が記録されている。日韓国交正常化の直後、金山大使は反対があったにもかかわらず三・一(独立運動)記念式に参席した。これまでの歴代大使の誰もがなしえなかったことだ。

 

崔書勉先生からこのお話を聞くたびに胸が熱くなる。金山大使の韓国に対する愛情もすごいが、そこには崔書勉先生の人を引きつける力、魔力と魅力もあったに違いない。

 

金山大使の墓のそば、23年間墓標だけが立てられていたその場所に、今、崔書勉先生も埋められたのだ。

 

崔書勉先生は1958年に東京に韓国研究院を設立し、30年間独島(竹島)と日韓関係の研究に生涯をささげてきた、日韓関係の権威者であり、数多くの外交文書と資料、独島(竹島)領有権を立証する古地図を発掘し、靖国神社に放置されていた北関大捷碑(文禄・慶長の役の際、咸鏡道の義勇兵の戦勝を記録した戦功碑)の返還にも寄与した近現代史の歴史学者だ。「安倍総理からは、外祖父であった岸信介元首相のように、大叔父であった佐藤栄作元首相のように、父であった安倍晋太郎元外相のように、悔い改めることをしるそのような遺産を受け取らねばならない」と手厳しく言ってのけ、韓国人であれば誰もが溜飲を下げた気持ちにさせる方だ。

 

日韓外交の背後で活躍し、日本の政界実力者とも交流して関係が悪化するたびに仲裁に入っては疎通を促した。そのたびに「批判するとしても、相手方の視角も考慮する度量をもて」と語ったが、自らそういう度量を持ち合わせていた。

 

私が崔書勉先生を知ったのはずっと前のことだが、よくお会いするようになったのは2012年からだ。その前年の東日本大震災に接して一気に書き上げた250首の短詩が日韓両国の新聞やテレビで取り上げられ、両国で本としても出されることになり、韓昇州先生の勧めでソウルと東京で出版記念会を開くことになった。日韓関係がよくなかった時期にもたらされた、鋭利な国際外交の眼目による賜物だ。

 

ソウルの後の東京が悩みだった。申珏秀大使(当時)が協力してくださったが、その本当の意味を知る方々を集めるのは容易ではなかったからだ。そのとき、崔書勉先生のことを思い出し、光化門のご自宅を訪ねると遅い時間にもかかわらず記者を何人か座らせて待っていた。本を見ることもなく、その場で東京に電話をする行動力を発揮なさった。

 

そのため、翌日の出版記念会には先生の電話で動員された方々も来てくれ、感激して目頭をぬらし、起立拍手をおくり、列にならんで私と握手をしてくれた。あとで「詩がどうしたくらいの気持ちでいやいや行ったが、行かなかったら大損するところでした」と連絡が来たといって崔先生も喜んでくださった。

 

それ以降、出版記念会に来てくださった方々がソウルに来るたびに時間を共にし、東京では毎月催される崔書勉を囲む会私も四度ほど参加した。崔書勉先生による日韓の歴史と現況に関する講演だが、日本政府に対する辛辣な批判でもあった。

 

崔書勉先生には学ぶべき点が多い。私が京都の大学に留学していたころ、東京からわざわざ秘書をともなって来てくださり、古本屋や文禄・慶長の役のときの耳塚を見て回った。2017年には、上皇の学習院大学の同期生である橋本明先生が出した、崔先生への複数回のインタビューをまとめた『韓国研究の魁 崔書勉』という本の東京での出版記念会でともに挨拶をした。

 

2年前の肺手術で崔書勉を囲む会ももうこれで終わりだろうかと、心配したメンバーたちがソウルまで訪ねて来た。崔先生はその後も何度か東京へ行き、メンバーたちを安心させたが、こん度は本当に逝ってしまわれた。 

親韓派の人々はたいへん悲しんでいる。

 

「今生きているものの中で、金九先生の声を聞いたことがあるのは私だけだろう」と語った崔先生。卓越した記憶力はもちろん、あふれるユーモア感覚と配慮心、余裕にみちた品性を備えていた先生。私の新刊『なぜ京都なのか』を差し上げたとき、序文を読みながら「たいしたもんだ、たいしたもんだ」と力づけてくださった先生。

 

 

家の前の景福宮にある北関大捷碑を見るたびに、先生のことをたくさん思い出すだろう。日韓両国にわたる実に波乱万丈、苦難の人生だった。

 

 

                  

                春の花の中で

 

                                                   李 承 信

 

                  お母さまを思い 春の花の中で

                  涙にじませた先生

 

                  そのお母さまと

                  生涯の羅針盤だった白凡先生 

                  並びたわる金山大使らと

 

                  喜びあって

                  骨身を削った生の重荷をおろしてください

 

 

                  土の中からはこの国は見えないでしょうが

                  そこからすべてを見下ろしている先生

 

                  私たちがその志を受け継いでゆきます

 

                  見守ってください

 

 

 

 

崔書勉先生、ジャン・セジョン外交安保専門記者  -  延禧洞 桜の園 2013  4  25

   

たい焼きをほおばる崔書勉先生。口述筆記役の秘書  – 京都 錦市場  2015  5

 

ソウル 外交部庁舎前  2017  7

 

 

 

 

 

 

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