カルチャーエッセイ

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学ぶということは

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  • 2020.05.26 22:05

 

 

 

 

          古典文学 山村孝一 先生                                                  2020  5  22

 

 

 

ぶということ

 

 

新型コロナウイルスが襲い、世の中は混乱を極め、そのために変ったことも一つや二つではないが、オンライン講義が長引いているせいもあって、教育や授業について改めて考えるようになる。

 

何よりも私が新型コロナ禍以前に教育を受けられた事実に心から感謝したい。人生に至大なる影響を与える幼少時からの教育は、習得する知識とそのコンテンツの内容がすべてではないからだ。

 

改めて過去をふり返ってみる。祖母の手にひかれて行った德壽初等学校(小学校)、女子中と女子高、大学、そしてアメリカ留学。

 

最近の子どもたちなら34歳で学ぶハングルと英語だが。ハングルを覚えたのは7歳、九九段も覚えたはずだが、そのとき学んだ知識はおぼろげで、思い出すのは頭を優しくなでてくれた2年生のときの先生、おだやかな印象の5年生のときの先生、そして節度があり端正な面立ちの6年生のときの先生、そうした先生方の顔ばかりだ。

 

女子中、女子高で英語を学び、科目も十何科目かにふえたので、明らかに知識は増えたはずだが、これといって記憶に残るものもなく、やはり思い出すものといえば、各教室をまわりながら私の絵を褒めてくれた中1のときの担任の先生、国語と地理の先生のかわいらしい姿、言葉遣い、表情、独特な抑揚、最初の授業で教室に入ってくるや枯れた花を片づけた英文法の先生の手つき、いつも顔がちょっと左に傾いているからとつけられた65分前のようなあだ名、眠気の中で聞いた朝鮮戦争に参戦した話草原の光のような映画の話、露天劇場の三千名が入るチャペルなどのことだ。 

 

大学はどうだったろうか。

なんとしても英文学を専攻しなくてはという切実な思いというよりは、当時カットラインが最も高く、先生の勧めもあってそうしたというのが正直なところで、確かに勉強もしたはずだが、4キロを超える重さの英文学アンソロジーAnthologyを肩にさげ、傾くようにして4年間毎日大学に通ったことと、広いキャンパスを本をかかえて歩き回ったことばかり思い出す。

 

自分の番がくると、アンソロジーの一部を読んで翻訳したりもしたが、とうとう卒業するまで読み通せなかった。5月の晴れた一日、授業のかわりに野外で芝生にすわり、先生が買ってくれたアイスクリームをおいしく食べたこと、月水金のお昼時間の大講堂での礼拝の出欠チェック、毎年の演劇発表、5月のMay Day祝祭等、そんなことばかりを鮮やかに思い出す。今も母校に立ち寄ることがあると、陽のあたるあのときの芝生にすわってみる。

 

そして当然の順序のようにして行ったワシントンへの留学。あまりに自由で環境はそれまでと全く変った。すぐに適応し理想を高めてまっしぐらと思われたが、慣れ親しんだ家族と環境を遠く離れて、いつももの寂しく、もの悲しかった思い出が走馬灯のように過ぎる。

 

そういえば、思い出すことといえば、学び勉強した内容よりも、恩師ひとりひとりの雰囲気、学校の中や外での雰囲気ばかりだ。

 

雰囲気を思い出すといえば日本への留学もそうだ。最近のことだからということもあるが、それまで私にあった先生といえばこうというステレオタイプを打ち壊してくれたことで、よりいっそう深く記憶に残っている。

 

日本も外国であり、慣れない外国語での勉強は大変だが、日本人の顔かたちは韓国人のそれと変らない。しかし、学生に対する態度と心がけは異なった。日本人の親切さ、優しさ、細やかさ、几帳面さ、謙遜に、私は毎日驚かされた。過去20余年間の学校に対する固定観念があったせいだ。

 

京都の同志社大学での授業で学んだことも映画のワンシーンのように頭をよぎるが、既に具体的なことはいちいち思い出せない。しかし、先生たちの学生に向き合う姿勢、謙虚さ、 笑顔、柔らかな声、そうした授業での徹した印象は今も胸の奥深くに刻まれている。最初の授業と最後の授業で、それなりにお年にもかかわらず学生たちに深々と頭をさげて礼をした遠山和子先生をはじめ、何人かの先生方の姿を忘れることができない。

 

学ぶということははたして何だろうか。このように尊敬する心を学び人性を育て、自ら発展させていくことではないだろうか。だからこそ今、世界中で行われている untact(非対面)による顔を合わせることのないオンライン講義が残念でならず、心配でもある。

 

授業で学ぶこと、そして人生に残ることは、必ずしもその内容と形式だけではない。私がふり返ってみたように、恩師とcontact(対面)しなければ感じられず、心に刻まれないことがあるがゆえに、この現況やポストコロナ時代の授業のことを憂うのだ。

 

 

これまで、それが当然と思っていた過去の全ての授業が愛情のまなざしをそそいでくれた先生方とともにあったものであったことを、今ほど悟り有難く思うことはない。昨年、学生たちと目を交わしながら行った私の大学院での授業が、新型コロナ拡散前のことだったことを、ただ感謝するばかりだ。 

 

 

    進んでは止まりふり返る旅程、恩師たちの人情と愛情が私の中にある

  


 

   授業  - 京都 同志社大学   2016  1  15 

原田朋子 先生 同志社大学  2016  1 19


  遠山和子 先生 同志社大学  2016 1 15 

                    山本和惠 先生  -  同志社大学   2016  7            

 

“李承信の文学”講演  -  同志社女子大学  2016  1  28 

  

                                 教え子たちと 最終講義の日  -  韓國  丹國大学院  2019  6

  

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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