2012 12 31
安家にて
私は朴槿惠次期大統領にお会いしたことはない。
しかし、お見かけしたことはずいぶんある。
私が両親とともに長く住んだ韓屋(韓国伝統家屋)は道路拡張のためにもうかなり切り取られてしまったが、その古家の母屋が敷地の奥深くにあった頃、入り口の門の近くに二階建ての洋式家屋があった。その二階の私の部屋のベランダから咫尺の間に朴正熙大統領とその娘を眺めたのだ。
1974年の8.15光復節、私はそれを台所の食堂で当時の白黒テレ
ビで見ていたが、大統領の祝辞中突然銃声が起こり、陸英修女史(朴大統領夫人)が凶弾に倒れた後のことだ。
弼雲洞90番地、我が家の向いは陸女史の兄である陸寅修議員の家で、朴大統領の義母が住んでいた。私も何度か行ったことのあるその家は、一階が車庫で外部階段を上がると二階に入り口と応接室があった。私が見たのはその広い階段を上る大統領親子の姿だ。
大統領が来られる度に家の前の道の両脇を何百メートルも警護員が固めたが、肝心の警護員はといえば、狭い路地を隔てて私がすぐ目の前で大統領親子を見下ろしていたことも知らず、飴をしゃぶって緊張感もなくだべってばかりで、ずいぶん間抜けて見えたことが印象に残っている。
それから間もなく私はワシントンに留学し、新しい国とそこでの勉強に適応し、そこでの仕事と人生に追われ、そのときの光景は完全に忘れていた。
しかし、帰国して家に戻ってくると、件のその家はインド大使館となっており、その後も9軒のビラが入れ替わり建てられたが、忘れていたはずの当時のその家の姿と階段を一段一段上る朴大統領親子の姿が時の流れを越えて鮮明に思い浮かんだ。
家を出入りする際、その場所を見ると昨日ことのように当時のことを思い出す。
昨年のある春の日たぶん5時半頃、そこを通りつつまた当時のことを思い浮かべながら家に入ろうとすると携帯が鳴り、でてみると「私、朴槿惠ですが」という。私は女史を知っていても女史は私のことを知らないはずなのになぜ、という当然持つべき疑問も抱かず、数十年来の旧知のごとく、つい今しがた思い出していた当時の光景について話した。
女史も嬉しそうに「そうでなくとも弼雲洞は母方の叔父の家なので」と言った。
懐かしさがこみ上げてきた。
そのときになって初めて正気にかえって「ところでご用件は」と聞くと、私の詩集『息を止めて』を読み感動したとのことだった。
世宗市をめぐる葛藤が最も激しかったときだけに、詩を読む余裕のあることも不思議だったが、何よりも私だけの知る、今まで誰にも話したことのない光景について、それも本人に初めてお話しすることが、予め定められていたかのようにあまりに自然だった。
女史が次期大統領への当選をはたした翌日の夕方、寒くはあったが町を下り、景福宮の長い石垣の道を経て青瓦臺(大統領官邸)前の槿庭園を歩いた。1979年、ここにある安家(情報機関が秘密維持のために利用する一般家屋)で朴大統領は逝去した。金泳三大統領が大統領当選後に最初にしたことが、この安家を壊し、槿の花をあふれる如く植えて国民に公開することだった。
『無窮花』という同じタイトルで5巻の歌集を出した母を車椅子の乗せて押しながら、2003年の夏、一面に咲く槿の花を見て親子で最後の散歩をしたところでもある。
言葉なき安家の痕跡と青瓦臺を今更のように見つめながら、新しくここの主人となる大統領のことを思った。
青瓦臺を出て最初の道を左折し孝子洞の道に曲がるそのすぐ前に槿庭園が臨める。
私がそこで母のことを思うように、新大統領もそこを毎日眺めながら肉親の父に万感の思いが胸に迫っていることだろう。
そして誓うのだ。
かの大統領の時代を越えようと。
お母さん
この槿の花がお母さんの歌集のタイトルよね?
そうよね~
言葉少ない母
の車椅子を押しながらあれこれ言葉をかけ続けた
そうだよ~
その声が聞こえる
槿庭園
血なまぐさい安家を
花でうずめた公園で
きらめく星を仰いで見る
母が父が送ってくる
ちかちかと 星の光の便り
12月零下の夜空を穿って
私が送る便り
お母さん~ 新しい大統領が決まったよ