カルチャーエッセイ

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百十周年

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  • 2013.08.28 15:02


                                                                   2013  1  13 

 

綿々とつながん 

 

 

 あの日

 濟物浦の港から

 アメリカへの移民船ゲーリック(Gaelic)号に百一体の人間を積み

 茫々たる大海 太平洋だけを眺め暮して

 ついに

 一九〇三年 一月 十三日

 夢にまでみたかの島

 ハワイ ホノルルに到着するまで

 二十と三日

 

 内里教会のクリスチャンの主軸が

 ハワイ移民の嚆矢であり

 アメリカ移民の始まりだった

 

 旅立つ胸に思い焦がれた

 豊かさと新教育への熱望

 輝くハワイの陽射しと自然の祝福

 そのハワイアンドリームが

 

 はるかに背丈を越す

 砂糖黍畑で

 豆だらけの指となり

 血痣がうかぶ指となり

 悲しさにやりきれないときも

 困難が押し寄せるときにも

 

 信じることで

 故郷の山河を思い

 韓民族特有の勤勉さとしぶとさで

 耐えに耐えぬき祈りを捧げた

 

 日本の侵略に怒り

 真珠湾攻撃に震えても

 神の役使を信じて

 越えた

 

 嗚呼

 祖母の祖母

 祖父の祖父

 流した血と汗と涙をどうして忘れよう

 

 遥かな異国にて

 祖国独立のための切望

 後孫たちのための犠牲

 

 宣教と常に

 民族運動の核心である教会

 跪く祈りが

 肥しとなり

 今

 我等は溢れんばかりの祝福を享受する

 

 祖国の叫ぶグローバル化 世界化は

 既に百十年前

 濟物浦の港から始まっていたのだ

 

 世が変わり

 山河が変わり

 太平洋を渡った

 二十と三日の船旅が

 十時間の飛行にとって代わっても

 

 我等に流れる

 大韓民国の血

 韓民族のDNA

 そして

 何よりも

 我等に流れる信仰の血は

 

 いつだろうと どこでだろうと

 綿々とつながれるだろう

 

 世が変わり

 世界が狭まり

 あの海を一時間で渡ってしまうとしても

 

 一九〇三年

 あの日

 濟物浦の港から

 胸に抱いてきた

 大切な信仰の種ひとつ

 その尊い愛の種ひとつ

 

 綿々とつながん

 永遠に続けん

 

 神の中にて

 

 

宋永吉仁川市長とは高麗大学国際大学院に一緒に通ったことがある。政治家には若干の偏見のある私はクラスでも彼とは口をきいたことはなかった。卒業式の日、式を終えて帰ろうとしたとき、キャンパスにある趙芝薫の詩碑で足を止めた。その碑石に刻まれた‘僧舞’という長詩を彼が滔々と暗誦していたのだ。改めて彼を見つめ直した。詩をたしなむ政治家宋永吉は、そのとき私が詩を書くことも知らなかったが、その後私の詩集が出るたびに心地よいほほ笑みを浮かべて感激してくれた。

 

ところが、ある日仁川市長選挙に出るという。落ちるのは目に見えているので絶対出馬しないようにとやんわり助言すらした。当選したその日にすぐ電話をくれたのは、私の考えが間違っていたことと自身の考えが正しかったことを、それとなくひけらかしたかったからかもしれない。

 

それでも私は仁川を訪ねることもなく三十年が過ぎていたが、一昨日突然彼から連絡があった。仁川から一群の人々がハワイの砂糖黍畑に移住したのが、韓国におけるアメリカ移民史の第一歩であり、今年は百十周年にあたる年なので、そのための祝詩を書いてほしいという。姉妹血縁を結んでいるホノルルでその詩を朗読することになるとも。

 

ハワイに対するほのかな思いはあるものの~何ヶ月くらい時間があるのかと聞くと、明後日の一月十三日なので、今すぐに書いてほしいという。ほのかな思いはある~という私の言葉を信じて彼は電話を切ってしまった。

 

どうしよう~長めの散文を書くよりは時間もかからないだろうと思うかもしれないが、短詩を書くことの方がよほど難しくて時間もかかるというのに。

 

百十年に渡る長久な二つの国の歴史を一行で書くこともできず、まして詩作はトウモロコシを炒るようにはいかないので、これをどうしたものか。しかも、本来のスケジュールに加え、日本で最も伝統のある講談社の詩雑誌‘短歌研究’から依頼された短歌十首の締め切りも同じ日だ。

 

だが、時間が問題ではない。仁川には三十年も行っていない。ワシントン、ニューヨーク から長期休暇でソウルに帰国する際、五十ドルを追加すればハワイでストップオーバーできるのでハワイを何度か行き来したことはあるが、かれこれ二十年も行ったことがない。他の要件を終えて夜中の一時を過ぎてもただ呆然とするばかりだった。

 

ほのかな思い出となどと言ったのは、幼い日に一九〇四生まれの祖母からハワイの花婿候補と写真でお見合いすることが流行ったことがあったが、自分はしなかったという話を聞くでもなく聞いたことがあり、異国的な新郎新婦、船に乗ってハワイへ~などの言葉がどことなく神秘的なイメージで残っていたせいかもしれない。

 

既に何時間かが過ぎ、今さらできないとうそぶけば、彼が百十周年記念式で困惑するだろうし、かといってこんなにも重大なことをこんなにも短時間で引受けたのも初めてなので、どうしたものかとお手上げ状態だった。

 

無償の愛をもって育んでくれた祖母ジャン・ボクスンのこと、百十年前国を襲った凶年にやむにやまれず船に乗りどことも知れない異国に向ったクリスチャンを主軸とする先祖たち、そして二十年のアメリカ生活で垣間見た祖国を懐かしむ僑民たちの心情をひたすら思いながら、太平洋を越えついにホノルル港に到着した彼らのように、夜を徹してたあげくどうにか明け方の四時半に上記のような七十一行の長詩が完成した。

 

これは私にとって奇跡のような出来事だ。

試験に打ち勝ったとでも言うべきか。

 

ここでは幼くして刻印されたハワイでのお見合いの話には触れていない。祖母が当時かの遥かな異国に行ったはずもないが、もしハワイに嫁いでいらた母も私もハワイ生まれとなっていただろう。

間違いなく好きだったはずのハワイの土を一度も踏むことのなかった祖母、初孫である私を最高の真心を尽くして育ててくれた祖母との思い出は、私の胸の内にある。

祖母がハワイに嫁いでいたら ~ と想像してみたあの幼い日のほのかな思い出も、私の胸のどこかにまだそのまま残されている。

 

 

 

 


背を焼く猛暑の中 当時の砂糖黍畑での過酷な作業

 


祖国独立を念願して出した資金証書

 
  

 

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