カルチャーエッセイ

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災難

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  • 2019.05.01 15:11

 

 

 

                                                                                                                          2019  4  19

 

  

 

李承信ので書くカルチャーエッセイ

 

 

A Star

 

 

ソウルにもどってみると、新聞ごとにすさまじい火の手の写真が載せられ、江原道の高城、江陵、束草が大火災にみまわれたと伝えていた。大変なことだ。

 

これまで何度か文章にも書き、私の最近の新作にも出てくる、幹一面に醜い傷を負いながらも春になると数十メートルにも及んで逞しく咲いてこの世を照らし、私を感動させてきた京都の桜の木が、昨年の秋、空港にまで被害が出るほど強力な台風に激しく傷つき、今年はごく細々と花を咲かせた。その痛ましい姿に接し、涙を流してきた直後のことだ。

 

日本は津波などの自然災害が多いので、自然災害の防止と予防が特に発達した国だ。だからといって人間が巨大な自然に敵うはずがない。「韓国には地震はないですよね?」と問う彼らに、そうですと答えながらも、浦項や慶州で起きた地震記事のことが頭をよぎる。

 

ノートルダム聖堂の火災はどうだろうか。何度か座って切実な祈祷を捧げた記憶もあって、残念なことこのうえなく、全世界が驚き悲しみに沈んだが、一日にしてすさまじい金額の寄付のリレーがおきるのを見て、文化先進国に向けられた愛がどれほど大きなものかを今更ながら感じることになった。いつだったかトルコ旅行の途中で、TIME誌のカバーを飾った焼け落ちた韓国の南大門の写真を見て、切々たる心情になったことも思い出す。

 

凄惨な戦争とニューヨークの911テロ等、途方もない悲劇、災害、苦痛が地球的規模、国家次元、個人的に起きるとき、「神様。これはどういうことでしょうか。こんなことがあっていいのでしょうか 」といつも尋ねてみるが、私はまだその答えを知らない。

 

ひとつわかることがあるとすれば、そうした苦痛と困難が実在するときには、それを癒そうとする慈悲、愛もどこかにともに実在するということだ。 

 

生きることには苦痛がともなうということを受け入れるのは容易なことではない。しかし、こうした惨状が地球にも個人にも起こり得ることを、私たちはもう経験としてよく知っている。考えが成熟し、霊的にも成熟すると傷を負っても立ち上がり、再び出発しなければならないことを知るようになる。

 

何年か前、景福高等学校で行われた教会の運動会でリレーに出たとき、4番手だった私はバトンを受け取って走り始めてすぐ、足元の砂にすべってそのまま転んでしまった。ズボンが破け、膝と足の皮膚を引っ掻きだいぶ血が流れたが、私のせいでチームが負けてしまったらどうしようという心配が先に立った。

 

今となっては名前も忘れてしまったが、真っ黒な皮膚のアフリカから来た青年が、そのとき私を抱き起こしながら、‘Sunshine, Do not worry. In my country of Africa, they say scars turn out to be a star ~’と言った。

 

その後、転んだり困難な目にあうことごとに、アフリカから来た青年が白い歯をむき出して笑いながら語ったこの言葉を思い出し、これこそ私が神に祈りたずねたその答えかもしれないと思ってみたりする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十数メートルにわたって切り裂かれてしまった 京都 御所 2019

 

Notre Dame  -  Paris


 


 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







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