カルチャーエッセイ

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ソウルに花が咲けば

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  • 2018.04.22 18:04

 

 

 

           景福宮 慶會樓の枝垂桜

                                                                                                                         2018  4  15

 

李承信ので書くカルチャーエッセイ

 

ソウルにが咲けば

 

 

ソウルに暮らしながらも、ソウルの春満開の花を見るのは久しぶりのことでした。

過去20余年間というもの、この時期には京都や東京を訪れることが多かったためです。

 

初めのころは日本で春の花を見て、帰ってくると今後はソウルの春の花が咲き始めるので、両方の花を楽しめましたが、いつごろからか日本とほとんど同時期にソウルの花が咲くようになり、片方しか見られなくなったのでした。

 

それがこの1月の突然の事故でせずともよい苦労をしたため、外国旅行の日程を取消しました。それでも遅くとも4月初旬には、私を待っている京都の春の花、なかでも枝垂桜を見られるだろうと思っていたのですが、退院後も回復を期して一時間余の空の旅は控えることにしました。

 

京都のあちこちで私を待っている素晴らしい芸術、濃いピンクの枝垂桜が目の前でひらひらとゆれていますが、わが故郷ソウルの春の花をゆったりと眺める機会になりました。

 

まず朝起きると、向かいに台所の小さな窓が見え、そのガラス越しにレンガ造りの隣家が見えるのですが、何日か前から白い桜の花でいっぱいになり、気分よく私を驚かせてくれます。ああ、残忍な冬は過ぎ去ったのだなあ。新しい季節、新しい命が咲いたのだなあ。

いまなにかちょっと夢をみているような気がするけれど、あの花も夢ではないだろうか。

希望だろう。

 

花の後ろに見えるその家にはかつて、陸英修女史(朴正熙大統領夫人)の兄である陸寅修氏が住んでいましたが、一緒に住んでいた母親は朴正熙大統領の義母でもあるので、陸英修女史の死後も大統領とその長女朴槿惠がよく訪れ、そのたび前後の長い路地はよく閉鎖されもしましたが、私は二階の自分の部屋からその光景を見下ろしたものでした。

 

いつかは当時の有名な韓国コメディアン5人が‘五父子’という映画をそこで撮影したことがありましたが、長いアメリカ暮らしから帰ってみるとインド大使館になっていました。その後、三階建てのビラが建てられ、建てたはよかったものの部屋があまり売れなかったのか、目の前に住む私の母は購入を勧められたらしく、台所から北岳山が見える一番展望のいい部屋を購入しました。その後銀行の借金をかえすために何とかして売り払おうとしましたが売れず、私にりたいとまで言い出しました。

 

当時は仕事で、アメリカにいる息子の高い学費を賄うために一番忙しかったときで、関心すらなく、見ると修理すべきところもすいぶんあるので、いらないと言いました。何度か催促されましたが反抗期の十代のように「修理する時間もお金もないからいらない」と意地を張ると、他の兄弟には内緒で譲ろうとした母は長い溜め息をもらしました。そのころ母は重患者室にいたのですが、本気になって売ろうとしたところ、近くの教会が担任牧師をフランスから招聘し部屋を探しているというので、半値近く安くなっていたその部屋を重患者室で契約し、母はそのお金で銀行の借金を返していました。

 

今こそ必要なのに。朝、目を覚ますとそれが目に飛び込んでくるというのに、純粋でも愚かだった当時、母の心はどれほどもどかしかったことでしょうか。母の言葉は何であれすべて聞くべきだったのにと、そのビラをみるたびにそう思うのですが、そこに真っ白な花が母のメッセージであるかのように俄かに咲いたのです。

 

私の部屋の西側の窓からは、20年前道路拡張のため大部分が削られてしまった裏庭が見えますが、そこに昔私が植えた桜の木が今では20メートルもの大きな木になり、綿雲のように花を咲かせています。1年の間ずっと忘れていたその花が、春には咲いて私をいつも驚かせるのです。

 

だいぶ昔、アメリカに勉強に行く前、カメラも珍しかった私の幼少時から写真撮影が大の趣味だった母は、私をつれて景福宮によく行きました。慶會樓の前の桜の花びらがひらひらと舞っていたことを思うと、4月だったのでしょう。

 

緑のセーターを着て、先のことなど何も知りもせずに、目が悪いわけでもなく丸いだて眼鏡をかけ、その後ろには長く伸びた枝垂桜が咲いていました。

 

写真や記録はいいものです。今はどこにいってしまったのかわかりませんが、長い間よく見ていたその写真で思い出します。母は桜を背景に明るく笑う私の写真、自身の作品であるその写真を焼き増しして、その裏に宝石のような長女を遠くにおくる名残惜しさを一行の詩にしたため、日韓の知人たちに送りました。

 

その景福宮をゆっくりと歩いてみます。

靑瓦臺の前を散策しては、たまに景福宮の北門側から中に入ることがありますが、慶會樓の池の前で母が写真をとってくれた、その花を背景とする場面は実に40余年ぶりのことです。刹那に散ってしまうからです。

 

今では桜の道が韓国のところどころにたくさんできましたが、長くのびた枝垂桜はあまり見かけません。顕忠院に何本かあり、最近は極まれに見かけもしますが、地にふれなんとするほどにロマンチックで叙情的なことを知らないのか、長くのびたその枝が中間で切り取られています。 

 

慶會樓の池の前、三角形の愛らしい北岳山と真っ青な空を背景にゆらゆらとゆれる枝垂桜が、私が生まれて初めて見た枝垂桜です。

 

この地にされた人は寂しいのです。父がずっと前に逝ってしまい残された母もそうだったのでしょう。

 

                   

 ひと年にくぎりをつける花ならば この春の日に又逢える君

 

                                                                                             孫戸妍

 

切なくもそう詠んでいるのをみれば。

 

遠くまでは行けず、靑瓦臺で総理公館のほうにゆるゆる歩いてゆくと、向かいの三淸洞の路地深くに真っ白な枝垂桜が垂れ下がり、暗い路地に日が射したように明るくなっていました。 

 

人々は長い冬の間、春の花のことを忘れていたかもしれません。しかし、春の花は忘れずに咲きます。自身のいるべき場所に帰ってきたのです。帰ってきた花を見て、また見て、見続けるうちに春がゆき、人生もゆくのでしょう。

 

いまなお帰らない父、父を想う純情と愛を20年間短歌にうたい、うたい続けて同じ季節に逝った母、そして、いまさらのごとく、幼い私を育ててくれた祖母のことがはっきりと思い出されます。花と植物が特に好きで、春になると貯めておいたお金を李朝箪笥の下から取り出し、木蓮や牡丹や姫百合をさしては幸せそうだった祖母。リーダーシップをそなえたたいそうな美人でしたが、その晩年、白髪頭の年老いた祖母を道端で見かけると我知らず避けていました。亡くなって30年にもなって、その心を私の胸に伝えるその花が咲く春。

 

春の花はどの国でどの位置からみても美しくていじらしく、昔の記憶と昔の人々を思い出させます。

 

 

                               

 花の陰 あかの他人は なかりけり

 

                                                                        小林一茶

 

                                 

  咲いた春の花ひとつでつながる我ら

 

                                                                            李承信

 

 

 

 

 

                                   目をますと台所の窓から見える春の花と向かいの家

                             ずっと前に裏庭に植えた桜、後ろのガラスは環境連合の建物

                                 夜、照明に照らされた家の前  弼雲大路のシダレザクラの街路樹           


 

                                      40年後に育った慶會樓池端のシダレザクラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





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