カルチャーエッセイ

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龍安寺

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  • 2017.06.08 19:42

 

 

 
 

 

  

 吾れ唯だ足るを知る

 

 

龍安寺は伝説だ。

 

京都が好きで研究する人々は世界中にいるが、彼らに京都のさまざまな名所のうち第一の名所はと問えば、しばらく悩んだあげくの答が‘龍安寺’であることが多い。それほど‘龍安寺’は有名で広く愛されている。西洋人は龍安寺が殊に好きだ。そのせいか、いつ立ち寄ってもそこにはフランス人をはじめヨーロッパ人がたくさん目につく。

 

その天を突く名声の理由はさまざまだ。1450年ごろ建てられた代表的な禅宗の寺刹として世界文化遺産であり、その規模も大きく、方丈の入り口を入ってすぐに陶淵明の長詩‘飲酒歌’の書の屏風が広がり、部屋の規模やその内部の扉に描かれた絵画の水準も素晴らしいが、部屋の前の長い縁側から見渡す広々とした石庭、枯山水が何といっても一番有名だ。

 

その名声は特に西洋の先進国に鳴り響いている。わたしたちは同じ東洋圏として多少慣れ親しんだ面があるが、彼らは極度に発達した彼らの精神文明に何か足りないものを、日本の精神文化の中に見出し、それが目に見える造形として表わされたものこそが龍安寺の石庭であり、その静けさ、清潔さ、単純さ、限りない霊性の美しさだった。その石庭に霊感を刺激された西洋の思想家、文学者、芸術家、建築家は数知れないほど多い。龍安寺はそのようにして伝説になった。

 

東西に25メートル、南北に10メートルの枯山水の石庭は、白砂と石だけからなる日本固有の禅宗の寺刹の庭園で、全宇宙と海と陸地とを意味している。それに関する深い思想と研究は多いが、陸地と島を意味する砂の上のそこかしこに15個の石が置かれているのに、小さい石がいくつか大きな石に隠れて1314個にしか見えないなどということも話題になっている。私も面白半分で数えてみたことがあるが、いつも数が足りなかったのに、今年の春何度か試みて、やっと全部を数えることができた。そんな他愛もないことがかえって深奥なる意味の世界を妨げているという批評もありはする。

 

枯山水の後ろに長く見渡せる土塀の自然で調和に満ちた色調も美しいことで有名だが、ずっと昔その土に油を厚く塗ったことが歳月を経て層となり積もり、その独特なブラウンを産み出した。屋根付のその塀越しに咲く一本の枝垂桜は、記念品を売る売台の上の大きなポスターで見ると並外れて素晴らしいが、何度か訪れてもお目にかかれない。他はどこも満開になる10日のこの春にも、塀の後ろに突き出たその桜の木だけはいっこうに花の蕾を開こうとせず、残念だった。

 

方丈に沿ってめぐる四角形の長い縁側を一回りすると、その後ろ側に日本で最も樹齢が長いという椿の木があり、その横にある額に‘朝鮮伝来’と書かれている。たくさんの建築と遺物は古代の百済と高句麗から来たものか、そこから来た人々が作ったものだが、最近それを中国から来たかのように書き換えられたものを見もして心落ち着かないが、この椿の木には‘朝鮮伝来の最も古い椿’と書かれているので嬉しく、いじらしくさえある。

 

春に龍安寺の門を入ると、頭上に花開く竹で支えられた枝垂桜がレースのトンネルのようで、濃いピンクの桃の花をはじめ、たくさんの木があるが、日本の寺刹らしく楓の木が最も多く、秋にその楓が赤く色づく美しい姿は必見だ。

 

龍安寺には宝物や遺物が多すぎて、紅葉の名所だとはついぞ聞いたこともなかったので、他に見るべきものも多い秋にそこまで足を延ばすことはなかったが、同志社大学の秋学期の試験が終わって、ふと「龍安寺の秋の景色はどんなものだろう」と思い立ち、そのままバスに乗った。12月中旬、大門の前から紅葉の葉がひらひらと舞い落ちるその姿は眩しくえもいえない品があった。

 

広々とした庭園に鏡容池という大きな池がある。日本のどのお寺でも飲食店を見かけたことはないが、龍安寺ではその池にそった道を歩くと寺刹式豆腐料理の店があり、四季折々の庭園の情緒を前後の窓に見下ろしながら味わうその淡白な味は清廉だ。

 

ここは201112月、李明博大統領と日本の野田佳彦首相が日韓首脳会談の後に訪れたところでもある。

 

会談は歴史論争となって中途半端に終り、そのころからひびが入り始めた日韓関係が今に至っているが、堅苦しくぴりぴりとした政治的な首脳会談の後に訪れる場所として、日本が首都東京ではなく京都の数ある名所の中から、自由で深みがあり優しさのあふれる場所をと苦心して選んだ場所がここだったはずなので、訪れるたびに隣国として二千年の縁と葛藤を有する両国の首脳が何を語り思いながらこの広い庭を歩いたものかと気にかかる。

 

そんないろいろなストーリーのある龍安寺だが、最近そこで悟らされた文句が胸をつく。人々に混じって座り縁側から大きな石庭を眺めた後、立ち上がって扉が開け広げられた方丈の芸術作品を眺めつつ縁側に沿ってその後ろに回ると、人工的な装いの前方とは異なり、自然そのままの森があり、左側の庭には昔の銅銭のような形をした石に細い竹筒から水が落ちているのが見える。何度か見たことがあるが、つくばい(蹲踞)という茶室に入る前に手を洗い口を清めるものだそうで、いつもはそういうものかと通り過ぎていた。ところが最近、その前に人だかりができているのを見て、私も足を止めしげしげと眺めることになった。

 

銅銭のように円い形をした石盤の真ん中に深く四角形の穴が穿たれ、そこに水が落ちるようになっている。ところでよく見ると真ん中の四角形の穴を囲って東西南北の位置に漢字の‘、矢、’が配されている。真ん中の四角い穴を‘口’として組合わせると、‘吾唯知足’という言葉になる。“吾れ唯だ足るを知る”無欲、無所有、謙遜、へりくだりを意味する釈迦の最後の教えである遺教経の‘知足の人は地上に臥すといえども、安楽なりとなす。不知足の者は富むといえども貧し’に由来する言葉だ。この悟りを四文字の漢字成語として、真ん中にあけた四角の穴を‘口’と見立てて読ませる知恵と発想には驚くばかりだ。

 

大きな龍安寺はその中に自然、建築、庭園、絵画等の芸術作品の美など見どころが多いのに、それを短時間で見学しようとするので心焦るばかりだったが、方丈の裏側にあるつくばいに刻まれた一言の悟りに心は落ち着きを取り戻し、龍安寺全体をそれまでとは違った目で眺めるようになった。

 

この寸鉄の教えがどうして眺めるだけのものであるはずがあろうか、私たちの人生のそこかしこに見られる姿そのものだ。

 

あ、石庭が笑ってる、春の龍安寺

 

 

 

 

 

 詩人陶淵明の‘飲酒歌’の屏風  –  京都 龍安寺本道入り口   2016  12  25

 

枯山水   –  京都  龍安寺   2016  12

 

枯山水と土塀  –  京都 龍安寺   2016  12

 

龍安寺方丈の部屋と襖絵  –  京都 龍安寺  2016  12

 

日本で一番古い椿の木と‘朝鮮伝来’の立て札  -  京都 龍安寺  2017  4 

 

 手を洗い口を清める銅銭形のつくばい 五+口=吾、口+隹=唯、 口+足、矢+口=






 

 

 

 

 

 

 





 




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