カルチャーエッセイ

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三浦綾子 - それでも明日は来る

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  • 2016.11.24 17:57

 

 

 

                                                                                                        2016  9  8

 

                                       

            

                                                   それでも明日は来る

 


                               私が絶望しないで生きて来ることができたのは、

              「それでも明日は来る」という希望があったからだ。

                それがどんな明日であるかはわからぬにしても、

                とにかく神が私に与えて下さる明日なのだ。

                そう思うと勇気が出た。

  


                                             三浦綾子 『それでも明日は来る』より

 

 

 

 

日本留学を終え、帰国してから初めて訪れた日本は北海道だった。ソウルは猛暑続きだが、ここは日本の最北端に位置する島で夏も涼しいというところだ。

 

韓国の旅行会社の北海道観光コースには旭川が抜けていていつも行くことができなかったが、今回は決心して一日を費やし電車で旭川を訪ねた。毎日台風の影響で暴雨続きだったが、旭川に行く日だけは快晴だった。“それでも明日は来る”という言葉はそこで出会った作家、三浦綾子(1922- 1999)の随筆のタイトルだ。

 

ああ、今このとき、それはどれほど私に必要な言葉だろうか。

 

留学を終えて帰国すると理解し難い出来事に見舞われた。想像もできない、説明もつかないあきれるような事態が続き、疲れ果てて空だけを眺めていた。どのように終結を迎えるのかわからずに不安と緊張の中に過ごした一日一日だった。

 

そこで突然出会ったのが三浦綾子だった。60年代、70年代、韓国でも‘氷点’はもちろん、さまざまな翻訳エッセイ集が旋風を巻き起こした。今の村上春樹は比較にもならない。日帝の強制占領期を抜け出してそれほど経ってもいなかった時期に、日本の書籍が韓国でそれほどに人気があったことが不思議だ。生の根源である原罪、愛、許しと和解をテーマとした‘氷点’は韓国でドラマとしても放映された。

 

‘道ありき’、‘この土の器をも’、‘光あるうちに’等の自伝小説は、私も女学校時代に感銘深く読んだ記憶がある。20代で肺結核と脊椎カリエスにかかり13年間もの闘病生活を送る。病院で幼なじみの前川正の導きでイエスの福音を授かることになる。前川が結核で死ぬと、前川と顔が似ている市の公務員だった三浦光世がキリスト教雑誌のインタビューのため綾子を訪れた。絶対に結婚はしないつもりだったという三浦光世は綾子との三度の出会いで綾子との結婚を決意することになる。一緒に過ごすのがたとえ三日間だけでも構わないという気持ちだったという。

 

結婚後、体を起こすことさえできない三浦綾子の小説を70編も口述筆記した年下の夫の献身的な外助と尽力は聖なる境地という思いさえ抱かせる。三浦綾子が先に短歌を詠むようになり、続いて三浦光世も詠み始め、ともに夫婦短歌集を出しもした。彼らは大きな机に互いに向かい合って座り、お祈りをしてから文章を書き始め、終わるとまたお祈りをした。

 

旭川の家の一階で雑貨店をしていた1963年。42才になった主婦が、寒い部屋で布団を頭までかぶって毎日夜10時から2時まで書き下ろした千枚の原稿が、朝日新聞の当時としては破格の金額だった一千万円の懸賞小説に当選し、一躍世界的な作家になった。締切日に三浦綾子自ら原稿を抱いて遠い北国の北海道から東京の朝日新聞本社まで行き、その日の消印を二度も押したという。

 

「体で伝道ができないので、小説で伝道しようとした。選ばれなくても審査員たちは読んでくれるので、審査員だけでも伝道できると考えて私は‘氷点’を書いた」三浦綾子の当選所感だ。

 

三浦綾子の死の一年前の1998年に完成した文学館は、日本全国のファンたちの誠意により建てられた。雪の本場たしく雪の結晶をかたどった六角形の建物は、こじんまりとしていながらも、残された80編の作品の肉筆原稿と膨大な取材ノート等の資料が展示されており、彼女の作品全体を一目にすることができる。映像で彼女の落ち着いた知的な音声も聞いた。

 

いつか母と話していて三浦綾子の名前が出ると、「彼女から手紙をもらったことがあるの」というので、とても驚き、その手紙はどこにあるのかと聞くと、似たような手紙が日本からたくさん来るので、全部持っていることもできずに、もうなくしてしまったと言った。母の短歌集‘無窮花’の短歌を自身の随筆に引用してもよいかという問い合わせだったという。

 

母の短歌集が出版されるたびに、日本の新聞に取り上げられることは知っていたが、母は私にとってはただの母であるにすぎなかった。そんな貴重な手紙を捨ててしまうなんて、というより、この母が自分の憧れる三浦綾子より格が上だとでも言うのだろうか。それまで母の短歌を一つも読んだことのなかった娘は、初めてそんな思いがわき出て、母の短歌に関心を持ち始めるようになったのかもしれない。三浦綾子のプレゼントだ。

 

それがどの短歌だったのか母の生前に聞き出せなかった私は、何年か前、西江大学で三浦綾子の小説が原作の‘銃口’という演劇を観たとき、ちょうどそこを訪れていた三浦綾子の夫、三浦光世にその話をした。おとなしいというのが第一印象だった。

 

そんなことを考えながら三浦綾子文学館に入って光世氏を探したが、昨年亡くなられたとのことだった。残念だったが、その話をすると担当者が、どの短歌だったのか調べてみますと言って、私を親切に案内してくれた。

 

作家夫婦の話をしながら、つと三浦綾子の容貌はそれほど美しいとは言えないのに、なぜそんなにも男性たちに人気があったのかと尋ねると、作家自身も容貌には恵まれなかったと書いているが、彼女と会話をするとその魅力にとらわれてしまうようだという案内人の言葉が印象的だった。

 

耐え難い苦痛の中でもそのような才能の力と、その芸術でたくさんの人々に神様とその福音を伝える文学的影響力以上の力が三浦綾子にはあり、何よりもそのそばでひたすら献身するパートナーがいた。その献身的なパートナーは昨年亡くなる際に家とあらゆるものを文学館に寄贈したが、その中に三浦綾子へおくった11通の熱いラブレターがあった。

 

悩みを抱えていた私に、それ以上の苦痛を信仰にもとづく重厚な作品と愛に昇華させ、数多くの人々に力と慰めを与えたその文章が胸に迫り、その中に宿る神さまの手招きが見えた。

 

遊びと休みでヒーリングを与えるための旅行で、胸の奥深くにその意味を宿らせることができるのなら、旅行もしてみるものだ。

 

 

 どんなに長いトンネルにも終わりが見える

 

 

小説よりもさらにドラマチックな三浦綾子の生涯。初めて見た彼女の他の随筆集のタイトルだ。

 

 

           

                病む吾の手を握りつつ睡る夫  眠れる顔も優しと思ふ

 

                                                                       三浦綾子の短歌

 

 

               草むらに白きふくらべの花を摘む 今にをさなき妻と思ふも

 

                                                                       三浦光世の短歌 

 

 

 

 

 


三浦光世と三浦

 

   文学館に展示されている三浦綾子の文学作品


三浦綾子と三浦光世夫婦の短歌集

 

文学館とつながっている'氷点'小説の舞台、見本林の森と川 - 2016  8  18


三浦綾子記念文学館


作家夫婦がともに祈り文章を書いた机  -  旭川 2016  8 18 

 

 

 

 

 

 

 








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