カルチャーエッセイ

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講演

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  • 2016.06.08 13:49

 

 

 


                      親子詩人   2002                     


    “孫戸妍 詩思想の再解釈”  

                                                          慶熙大学 講演
  

     孫戸妍短歌研究所 理事長  李 承 信

 

 

                                   切実な望みが一つ吾れにあり諍いのなき国と国なれ
  

この一行の短歌は孫戸妍歌人の切実な心が込められたもので、盧武鉉大統領と日本の小泉純一郎首相が青瓦臺(大統領府)での頂上会談、そして会談後の外信記者会見での演説にて引用され、その精神について語られた短歌でもあります。

 

歌人の没後1年の2005年初め、ソウルで‘日韓友好の年’が宣布された場で、我らが大統領と日本代表として来られた森喜朗前首相の演説を聞きました。初めて見た盧武大統領と日本の小泉純一郎首相が青瓦臺(大統領府)での頂上会談、そして会談後大統領の演説は期待以上に素晴らしかったですが、そこに孫戸妍歌人の平和精神が宿っていたら完璧なのにと一番前の列で思いました。

 

しかし時を移さず、竹島をめぐるデモが連日して起こり、日韓関係の主な行事が取りやめになり、日韓友好の年を台無しにしてしまいました。

 

これを深く憂い、同年6月20日、日韓首脳会談が開かれるというので、盧武大統領に孫戸妍の短歌と平和を望む切実な願いを見せ、日本側には歌人の伝記作家と衆議院議員を通して森前首相と当時の小泉首相に歌人の本とその生涯を記録したドキュメンタリーDVDを送りました。

 

10年前のその瞬間が思い出されるのは、韓国のデモは凄まじく、マスコミの影響で全国が何か月間か湧きかえったにもかかわらず、最近のような最悪の日韓関係にまではならなかったせいです。

 

わたしは今、その歌人の娘として昨今の日韓の状況に心が重くならざるを得ません。日本帝国主義時代の強占期に生まれた母が、多くの差別と痛みと傷を受けながらも、葛藤もなく互いに平和に生きられたらという心を、息をひきとる瞬間まで持ち続け、その心と思想を一行の短歌芸術に消化させながら、生涯表現し続けたからです。

 

1923年11月15日、91年前のまさに今日、孫戸妍歌人は生まれました。

李王家が建てた進明女子高を卒業し、最後の皇太子妃である李方子女史により選ばれた10余名の一人として東京に留学し、東京帝国女子大学(現在の相模女子大学)に通い、鴻嬉寮という名の寄宿舎で生活することになりました。

 

自身の死後に弟子である孫戸妍に命のように大事にしていた分厚い日本の聖書を譲った西森という先生がおり、寮の顧問には短歌歌人でもある枡富照子という先生がいました。枡富照子の夫は、全羅北道の高敞に高敞高普を建てた人物です。この二人の先生は孫戸妍を大事にし、影響を与え、1965年の日韓修交後にはそれぞれの韓国の弟子たちを訪ねてきたことがあり、わたしの家に泊まりもしました。

 

枡富先生は寄宿舎の鴻嬉寮の学生たちに教養科目として短歌を教えようとしたのですが、難しいからか、祖国の魂を奪われはしないかという心からか、最初の授業から孫戸妍を除くほとんどの生徒が部屋を出てしまい、先生の一番近くにいた孫戸妍が一人取り残されました。しかたなく益富先生は次の授業からは孫戸妍を日本の詩聖と呼ばれる短歌の大家である佐々木信綱のもとに連れてゆき、単独で短歌を学ばせました。

 

生徒たちが皆出てしまったので、教えようとする先生に申し訳なく、一緒に出られなかったせいですが、後に母に聞いたところでは、出ようという学友たちの言葉がはっきり聞き取れなかったせいでもあるとのことでした。

 

運命とはそんなものなのかもしれません。

17歳の少女にとって初めての短歌の授業が、その生涯にわたることになったのです。

 

日本帝国主義時代の強占期に生まれ、ソウルの学校に通っても祖国がないので、母国語を使うことができず、あえて使えば‘国語使用’という大きな札を首にかけられて罰を受けなければなりませんでした。

当時の国語は当然日本語です。

東京に留学して専攻したのは、当時女学生に人気だった家庭科でしたが、寄宿舎で教養のためにと始めた短歌授業に生徒はひとりだけで、そのひとりに素質があったので、当代の短歌の大家のもとで授業を受けることになったのです。

 

家庭科を専攻し、在学中はずっと佐々木先生のお宅で短歌を学ぶことになりましたが、なにしろ空腹の時代のこと、先生のお宅で出されるスープとあたたかいパンがお目当てだったのかもしれません。短歌を作っていくと、師が弟子の手をとり、赤いペンでなおしながら教えてくれたといいます。差し伸べた手を取りあう弟子と師の目には見えなくてもはっきりと見える詩心をわたしは想像します。

 

今でも日本に行って母が以前佐々木信綱先生に師事していたと言うと、信じられないといった反応がかえってきます。トルストイのような日本の詩聖にどうやって李先生のお母さんが一人だけしかも何年にもわたって学ぶことができたのかと訝ります。

しかし、スープやら赤いペンでの指導やらというこれ等の話は、みな孫戸妍の短歌に出てくる話です。

 

日本の文学として学び、日本人たちが自身の精神的支柱としている短歌が、実は韓国から来た文学であることを孫戸妍が知ることになるのは、ずっと後のことです。佐々木信綱先生が推薦文を書いた‘戸妍歌集’を大学卒業後の1944年に東京で出汁、帰国後は当時ソウルの日本学校であった舞鶴高等女学校で唯一の韓国人教員として家庭科を教えることになりました。

 

1947年、平壤出身で商工部の課長であった李允模と結婚し、6.25動乱(朝鮮戦争)のときには3年間釜山の草梁に疎開し、そこで産んだ赤ん坊とともに、戦争の放火の中、水もなく食べものも不足する苦難の日々、紙もペンもなく短歌を書きつけることもできない原始的な生活を送りもしました。

 

 


 


5人兄弟を産み育て、1979年には再び短歌研究のために東京に行き、短歌と万葉集研究の最高権威である中西進先生に出会います。その中西先生から「短歌は1400年前の百済に根があり、そこで書かれていたが、百済が滅びて皆日本に移住することで、日本に伝えられたものなので、よりよい短歌を作るためには百済の扶余と白馬江に行ってきなさい」という言葉を聞かされました。
  

チマチョゴリ装いながら吾れは嗅ぐ千歳の前のその残り香を
 

国の独立後、直ちにその意識を変える作業にかかろうとしても、繊細な十代に入力された短歌を、しかも才能と素質を大きく認められた短歌をやめることは、言葉で言うほど易しいことではなかったでしょう。韓国語は家で使うので流暢ですが、韓国の学校で韓国語で教育を受けたことはありません。もちろん韓国語でも文章を書きますが、日本帝国主義時代の教育の結果として、日本語でこそリズムがのり、うまく表現もできるのでした。
  

国戻り意識を変える闘いが又新たなる課題となれり

  
佐々木信綱先生は、最初の時間に幼い少女に二つの教えを授けました。「わたしについて学ぶなら、まず中途で放棄してはなりません。そして、日本の短歌の真似をするのではなく、朝鮮の美しさを詠みなさい」。創氏改名で日本式の名をつけ、日本式に洗脳しようとしていた時期であることを思えば、それはまさに真の芸術家の言葉でした。

 

開放と同時に、それまでは韓国語を使うと罰せられ監獄に入れられていたのが全てひっくり返され、日本語を使うと捕まるような事態になりました。しかも日本精神の核心、骨髄ともいえる短歌を作るとなれば、歌人は周囲に気を使わざるをえまえんでした。文章を書く人間にとって文章を書けないのは拷問です。それに短歌を途中で放棄するなという師との約束もありました。

 

母は、自身が真の愛国者であれば短歌をやめるべきではないだろうか、やめない自分は愛国者ではないというのか、短歌づくりを続けるべきか否か、その葛藤はあちこちで綴られた文章に、半世紀以上にわたり毎日、一日中、一瞬一瞬ごとが苦悩の連続だったと語っています。

 

それが、数十年後、短歌研究の最高権威である中西進先生の‘短歌は百済のもの’という宣布に心弾ませて喜んだ孫戸妍歌人の当時の心情を想像してみます。それが事実であれば、千年前に消え去った韓国詩の唯一の後裔として、絶たれた命脈を繋ぐことになるのですから。

 

短歌を媒介として韓国の歌人孫戸妍の運命について考えてみます。

 

1400余年前の660年に、郷歌をつくってきた文化の国百済が戦争で滅び、死を免れるため自分の足で歩ける二十万人もが日本に移住したといいます。

 

百済には‘薯童謡’のような16首の短詩のみが残されてだけですが、その後、日本に渡った百済の王族、貴族、学者、文化人とその後孫の渡来人たちは、ずっとその詩を作り伝え続け、天皇が‘短歌をつくる人’と命名されるほどに全国民が子どものころから学んではつくり、日本の国詩として花開くようになります。

 

そこに千年の時を超えて初めて韓国人孫戸妍が、日本留学で韓国の古代詩を日本の大家に師事して学び、韓国に帰国後、60年にわたり短歌をつくり続け、人生の後半に日本で短歌の大家として認められたことを考えるとき、それは立ち消えた韓国の詩である短歌が孫戸妍歌人により再び繋がれたことを意味し、高級文化の歴史が連結されたことを意味するのです。

 

戦後、経済的にも成功した日本は、全世界に自国の文化イメージを広げており、文化の中心である文学においても、その最も核心である短歌は日本文化院等を通して世界に伝えられ、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス等の特に先進国では、小学校、中学校の教科書に載せられ、教えられ、自国語でも書いており、日本が伝えた高級文化だと思って心酔している姿を、最近ヨーロッパで目撃してきました。

 

孫戸妍歌人は、生涯韓国で短歌を作り続けましたが、海を越えた日本で大家として認められ、1997年には日本の読者たちが本州最北端の青森に孫戸妍の歌碑を建て、1998年には天皇陛下による宮中歌会始の儀にも大家として招請され、韓国の美しいチマチョゴリを着て、天皇皇后が自作短歌を自ら朗誦するのを聞く名誉の‘倍賞人’資格で参席しました。歌会始の儀に参加した唯一の外国人であり、公職にない韓国人として日本の天皇にお目通りのかなった唯一の韓国人でした。

 

晴れの日に合わせて縫いしチマチョゴリ着て慎ましく歩きみるかな
 

息を引き取るまでの63年間につくった2000首以上の孫戸妍歌人の短歌のテーマは、およそ六つにわけて考えることができます。
  

 

―      韓国の近現代史

 

         浜風に万国旗揺れ泣いており祖国の旗は何の悲しみ 

 

―    統一の願い
  

        分断の国狭かれど統一を夢みつつ書く大・韓・民・国
  

― 東アジアの平和
  

        東亜細亜の涯の国に生ひたちし吾ひたすらに平和を祈る
  

―    人類に対する憐憫
  

        시를 생각하는 연마된 마음엔 우주의 인간이 다 아름답기만 하네

 

―    自然に対する敬畏
  

        野茨の尖りし棘に降る雪は刺されまいとてそつと積れり
 

―    愛する者への心
 

        君よ吾が愛の深さをためさむとかりそめに目を閉ぢたまひしや

 

        君逝きて巌とやなれ蔦に生え吾れ絡みあい千年を生きむ

 

   

孫戸妍歌人は、詩文学を国際外交に広げた詩人でもあります。

 

ある文学者が外国の言語で書き、その国を代表する王、大統領、総統、首相、総理といった高位高官に認められたという話は、世界のどこでも聞いたことがありません。

孫戸妍の短歌を愛し、尊敬するその国の国民の文化意識と、短歌をつくり自身の自作詩を斯界の大家に朗誦させる天皇個人の力量や素養は、その面では認めなければなりません。

 

その短歌には祖国大韓民国を愛する心、祖国統一の念願、チマチョゴリ、障子、チャンドクデ(キムチや味噌を貯蔵する壺の置き台)等が出てきますが、日本に対する賞讃や称揚はありません。立場を変えて考えてみれば、日本人の意識はすごいものです。もし日本の詩人が韓国語で詩を書き、祖国日本を愛し称揚する内容ばかり書いたとしたら、わたしたちは果たしてどのような反応を見せるでしょうか、それを考えれば理解できます。

 

しかし、それは何よりもそばで見守っていた、小さな体躯の母の胸の中の大きな愛のゆえであったと思います。わたしは生前、母の短歌には全然関心がありませんでしたが、当代の名のある詩人であり、日本語もよくする具常先生や趙炳華先生を何度もお訪ねし、母の短歌集の翻訳作業をお願いしても、一行詩の翻訳は不可能だとおっしゃり、待てど暮らせど誰も母の研究作業をしてくれないので、母の逝去の直前になって仕方なく、日本で一日も勉強したことのないわたしが、一冊の本を企画、翻訳、出版する過程で初めて、その価値に気づかされたのでした。

 

その後も何冊かの出版作業と、歌人の十周忌に四か国語からなる孫戸妍短歌集を出版する行事を催しながら、より深く胸で感じるようになったのは、短歌を通してみる歌人の国境を越えた世界と人間と事物に対する深い愛情と憐憫です。

 

地球上を見渡しても近い国同士問題のない国はどこにもありませんが、韓国の最も近い隣国との地理的、歴史的関係により引き起こされることどもは、今や修交後最も長く気まずい期間を続け、植民地時代の経験の全くないわたしの胸までを押し潰しています。

 

歴史認識、竹島領有権、慰安婦問題、日本の集団的自衛権行使等の事案により、日韓関係が前に進めなくなって久しくなります。

安倍政府は問題があれば会って対話しましょうという意志をさまざまな経路を通して伝えていますが、我らが大統領は互いの視角の差だけを確認するだけなら、何のために会うのかといって2年が過ぎようとしています。

 

何より悲しいことは、以前なら多少の反感があっても国民はそれは政治家たちの事情だといって、それほど息苦しいことはなかったのが、今や悪化した状態が長引いて嫌韓だ反日だという語彙とともに国民たちの心まで消沈してしまい、韓流に騒いでいたのはいつのことだったかとでもいうように、互いの心が遠ざかっています。

 

多くの人々がここ何年か会えずにいる日韓首脳会談を待ち望んでいます。大きな損害になるだの自尊心だのを捨てて会うべきだと批判しています。わたしも二人の首脳が会うことを願ています。

 

しかし、今にして思えば、会うことは容易でないとしても、会ったからといって何かが劇的に変わるだろうかとも思います。結局わたしたち各自の基本的な心が変わらなくては、会ったところで今までの状況が再び繰り返されるだけだと思います。

 

今やわたしたちが変わらねばならない時です。

わたしたち一人一人が孫戸妍の愛情のある心を持つことができるよう願います。

愛情のある人間関係、愛情のある国と国の関係は、国境を越えた互いの真実の理解から始まると歌人は言いました。

 

極めて小さなエピソードを一つご紹介します。

母が1998年に宮中新年歌会始の儀に参席した翌日の朝、ソウルから一緒に来た孫のために水を買おうと小さな店に入りました。中年夫婦が母に、ご旅行ですか、どちらにお泊りですか、どちらからお越しですか、と続けざまに聞きました。ソウルから来たと説明し、お二人はどちらのご出身ですかと聞くと、意外にも青森だということでした。

母は突然活気づき、「わたしも青森へ昨年行きました。りんごがとてもおいしいところですね。青森にはわたしの歌碑が建てられたんです」と言うと、二人は理解できないようだったので、発音にも気を使って詳細に説明しました。

 

説明を聞き終わると、店の主人は突然あらたまり、先生は大変立派な方のようですねと言いながら、丁寧にお辞儀をするのでした。店を出ようとするとポテトチップ一袋を差し出してお孫さんにと言ってくれました。お金をとろうとしないので、そのまま店を出るのも気がひけ、包装紙の裏に短歌を2首書きつけました。

 

  故国はるか吾が歌碑建ちぬ隣あい肩を寄せあい睦みあえよと

 

切実な望みが一つ吾れにあり諍いのなき国と国なれ

 

これを読んだ奥さんは涙ぐみながら「お隣同士仲良くしなきゃね」と言って、もう一度頭を下げて挨拶しなかなか頭を上げようとしませんでした。しばらくして、「ほんとうに感動して涙がとまらなくなっちゃて」と言いながら涙をふきました。横にいたご主人の目も赤くなっていました。母は一枚しかないという汚れた名刺を受け取ってその店を出ました。

 

翌日その感動さめやらぬうちに母は一枚の手紙を書きました。

‘昨日は朝早くからご迷惑おかけしました。会ったこともないわたしの孫のためにくださったポテトチップは、わたしの手に渡された瞬間からただのものではなく、わたしの短歌とともに日韓親善の架け橋の役割を十分に果たしました。この心はわたし中に末永く残ることでしょう。今後とも仲良く過ごしましょう。’

 

そうです。日常の暮しを通して、わたしたち一人一人が民間外交官となる資格があり、そうなることがはるかに切実で重要なことだと思います。政府や首脳や政治家を推して期待して待ち、それを批評するうちにたくさんの時間が流れてしまいました。外国で大いに認められた孫戸妍の文学を日本語と詩文学の大家たちが正当に評価してくれるだろうと、何の対策のなしに待ち続けるうちにたくさんの歳月が流れてしまったようにです。

 

3年前、東日本大震災が起き、韓国人として日本に愛された歌人の母であれば、力強い一行の短歌で、家族と家を失った人々を労わるはずなのにと思う心から、200余首のわたしの短歌集を日韓両国で出版したことがあります。

 

それをきっかけに毎年3.11には最大被災地の宮城県気仙沼市を訪れ、詩の朗読とスピーチをしてきましたが、被災地の人々は「韓国のみなさんの心は両国政府の心とは違うんですね」と言います。詩に感動し誤解がとけたとでもいうその表情、両国のよき関係を望む真剣な表情にむしろわたしが感動しました。

 

日本の人口の5分の3以上が1400年前に海を渡った百済人の後裔であると日本の専門家から聞きました。あまりにも近いせいで地理的な隣人であることを越えてしまうため、宿命的に互いを求め、ときに葛藤するのかもしれません。

 

経済、安保も重要ですが、何よりも同じ血でつながった血縁であると考えるとき、真実性のあるよき関係を一日も早く持ち合えるようになることを願わざるをえません。

 

森前首相が安倍首相の親書を携えて来られ、その後も重要な特使を送ってくる等、足早な動きを見せましたが、何も変わっていません。我らが大統領は最近日中韓首脳会談を提起しました。しかし、わたしたちの心が変わらなければ、首脳会談後にさらに関係が悪化することもありえます。

 
 隣いて胸にも近き国なれと無窮花を愛でてさくらも愛でて
 

母の没後、日本の出版関係の人から聞きました。

わたしが‘보다듬고’と翻訳した日本語の‘愛でて’という言葉には、抱く、見逃す、がまんする、抱擁する、許す、嫌いでも抱き寄せる、愛する等、いろいろな意味が込められているということです。

 

詩を解説してしまえばその独特な意味がとびさってしまいますが、長き歳月を抱こうか抱くまいか、見逃し抱擁し許すべきか否か、もう一度だけ許し愛すべきか否かと、葛藤に葛藤をかさね、悩みに悩んだあげく、歌人であった母は手を差しのべ、抱き寄せてその背をさする決心をすることにしたのかもしれません。

 

そうした心の長い長い過程が、この短歌の奥深くに秘められているのではないかと思ってみます。この豊かな意味を含んだ語彙を選んだ母の心情に、母を失った今になって気づかされるのです。

 

どんなことであれ人のすることです。

そうであればまずは心がなければなりません。

容易ではありませんでしたが、歌人はそのような心を持つことを強く決心しました。

結局は心なのです。

各自の心を合わせたものが、一国の水準であり格なのです。

 

いまや両国トップの会談をただ待ちわびるよりも、わたしたち国民の一人一人がそのような心を持つことを覚悟し、間もなく迎える光復70周年、日韓修交50周年を意義深いものとし、誇らかに迎えられることを、‘韓国の親子詩人’は切に願っています。

 
 

痛む過去わだかまりを捨て求めるは互いを称える大人の平和
 

                                                                                              李承信 短歌 

 

 



孫戸妍歌人の平和精神を語る日韓首脳会談 – 青瓦臺  2005 6 20

慶熙大での講演討論者のキムギョンヒ檀國大教授 -   2014 11 15
 

 

 

 

 

 




 



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