カルチャーエッセイ

본문

寒梅

  • 비추천 0
  • 추천 0
  • 2015.09.22 12:28

 

 

                          同志社大学のチャペル前、新島襄が植えた梅の木                      

                                                                    2015  9   17       

 

わたしが出会った寒梅

 

 

 

京都の同志社大学に来るまでは‘新島襄’という人物を私は知らなかった。

 

同志社大学は設立者である新島襄(1843-1890)がクリスチャン精神にもとづき建てた学校であり、千年の古都京都の御所のすぐ前に位置している。歴史ある大学のキャンパスを歩くとあちこちに古色蒼然としたレンガの建物が目につくが、その真ん中にやはり古色蒼然たたるチャペルが立っている。

 

140年前、新島襄がこの学校を建てるとき、一番初めに建てた建物だ。

 

私が京都を初めて訪ねたのは1970年のことだ。当時国際青少年会議が東京であったため東京に行ったついでに、大阪にいた父の日本人の友人の方の家に少しお世話になったことがある。そのとき、その家の娘と電車に乗って京都を訪れたのだ。

 

以来、たびたび訪れてはいるが、ちょうど10年前の2005年、母の死から2年後に京都国際会館で日本政府が母である孫戸妍歌人を称える行事が二日間にわたって開かれた。韓国の詩調詩人である許英子、李根培氏も参席し、日本の著名な詩人たちと日本の短歌と韓国の詩調を互いに翻訳しあって隣国の詩を詠み、あるいは評して討論し合いもし、東京からきた日本の文部大臣の演説と母の師であり日本の万葉集の大家でもある中西進先生の講演もあり、両国を包み込む意義深い行事だった。最後には私の演説があり、その後京都の名所を訪ね歩いた。

 

紅葉の季節の京都はほんとうに美しかった。

今さらながらに京都の美しさを感じ、懐かしい故郷が目の前に広がるようでもあり、西洋文明もしみ込んだ妙な美しさに出会った。その後、私は機会があるたびに飛行機で一時間の京都を訪ね、私の国からはなくなってしまった千年前の故郷とその新しさを見つけ出した。

 

何年か泊まったことのある東山の“寧々の道”豊臣秀吉の別荘の前にある旅館もよかったが、ちょうどそこに部屋がなかったとき宿を移した御所の向いの簡素なホテルも味があった。そこに泊まりながら道向いの広大な御所もながめ、すぐ隣の同志社大学のキャンパスも歩くようになった。

 

そんなある春の日、同志社大学のキャンパスのピンク色の花の前で初めて会った引退した歴史の先生の勧めで、同大学に申請書を出すことになり、今年の三月から私は思いもしなかった同志社大学生になった。

 

それからずっとチャペルと、その中にある新島襄の肖像画を眺めるようになった。チャペルの右側には韓国の詩人尹東柱と鄭芝容のこじんまりした詩碑が立っており、そのまた右側には初期に教室として使用されたハリス科学館という、新島襄のさまざまな資料が展示された美しいレンガの建物の博物館があり、ある人物の考えが世の中をどのような変えたのかを見ることができる。こうして全く知りもしなかった新島襄に出会ったのだ。

 

幕府時代、鎖国を理由に海外渡航は禁じられていたが、新島襄はある船長の助けを得て国禁を犯して渡米する。1865年、今から140年まえにそうやってアメリカのボストンのフィリップス・アカデミー、アンドーヴァーハイスクール、アマースト大学とアンドーヴァー神学校を卒業した新島襄は、卒業後にある宣教者の集まりで、日本にクリスチャンスクールを建てるためのファンドを募集する演説をする。そのようにして建てられた学校の最初の建物がこのチャペルであり、日本の重要文化財である建物を保護するために、一日三十分だけ開かれる。

 

チャペルのすぐ前にはこの学校の象徴であり、新島襄の哲学でもある梅の木が4本立っており、その横には彼がつくった梅の詩、教科書にも出てくる有名な短詩一首が詩碑に彼の親筆で刻まれている。勉強に音をあげそうになるたびに、設立者の信仰と梅を植えた意味を肝に銘じて、その一行の詩を見つめなおす。

 

知識だけを詰め込む学校ではなく、信仰があり真実の徳と良心を備えた学問を立てようという志から、建物には良心館、明徳館、弘風館等の名前がつけられている。そうした名前の一つで、寒い冬の梅という意味の寒梅館はひときわ目につく。

 

新島襄は教育家としてのみならず、日本で全国的に尊敬されている優れた人物だ。彼の生前の足跡を辿る巡礼客も多い。彼は日本人としてアメリカの大学の学士を受けた最初の人物であり、1889年には日本人として初めてアマースト大学の名誉博士号を受け、1950年には日本の切手デザインにまでなるほど人気のある歴史上の人物だ。

 

最近ソウルで会った同志社大学の村田晃嗣学長によれば、アメリカのアマースト大学の最も重要は位置に新島襄の肖像画がかかっているという。詩人のロバート・フロストや大統領、ノーベル賞受賞者を輩出した、小さいけれど有名な人文学大学であり、肖像画をかける基準は、同窓及び世の中にどれだけ大きなインパクトを及ぼしたかであるという。

 

妻である新島八重(1845-1932)はさらに有名で独特だった。

早くから福島は会津の砲兵隊員の娘として幕府時代から明治新政府に逆らい、会津城でライフルの銃床を抱えて闘い、‘日本のジャンヌ・ダルク’と呼ばれた。

 

八重の兄に会うために会津を訪れた新島襄と出会い、長い交際を経て1876年に結婚するが、当時はまだ男の影で静かにしているのがよい夫人とされていた時代だったので、一時は悪妻というイメージで見られるが、アメリカで 10年以上修学した新島とともに先駆けて男女平等を唱えた。新島がアメリカの宣教師に送った手紙にはYae has a handsome lifestyleと書かれていた。46歳でこの世を去った夫新島襄に代わり、87歳まで同志社大学に献身した八重の功績は大きい。

 

しばらく前に新島襄と八重をテーマとしたNHKの大河ドラマ“八重の桜”でさらに有名になり、彼らの偉大さに感動したたくさんの人々が、4年前原発事故が起きた福島は会津の鶴ヶ城と京都の同志社大学を訪問するようになった。

 

縁にはさまざまなタイプがあるだろう。

19世紀の人物に私が親しく会うことはできないが、ずっと後世の21世紀に新島襄が建てた学校に来て、彼の美しいスピリットに出会えた縁に私は心から感謝し感激している。激しい寒さの冬を耐え忍びやがてはその花を咲かせる寒梅の美しさと香気の如く、過去140年間に渡りいくつもの困難な峠を乗り越え乗り越えて繰り広げられてきた彼の美しい精神が、末長く広がっていくことを願ってやまない。

 

 

 

                                   真理は寒梅の似し敢えて風雪を侵して開く

                             

                          (真理似寒梅 敢侵風雪開)

 

                         新島襄

 

 

 

                               

                                                           八重と新島襄

                                

                                    同志社大チャペルのそば、新島襄の寒梅の詩碑 - 2015  8  6

 

                                              

 

 

--------------------------------------------------

 

 

李承信  詩人、エッセイスト、孫戸妍短歌研究所理事長 

梨花女子大学英文科、ジョージタウン大学院、シラキュス大学院卒業、同志社大学在学中

放送委員会国際協力委員、サムスン映像事業団、第一企画制作顧問

 

著書 - 癒しと悟りの旅路より、息を止めて、沖縄に染まる

 花だけの春などあろうはずもなし、君の心で花は咲く、その他

 

 

 

 

 

 

 

                        ホームページへ              感じたこと一言             友人に推薦











추천 0 비추천 0

트위터 페이스북 미투데이 다음요즘 싸이공감 네이트온 쪽지 구글 북마크 네이버 북마크

댓글목록


회원로그인
회원가입     아이디/비번 찾기