重みのある名前だ。‘哲学の道’
入り口の岩にそう刻まれている。
銀閣寺のあるところから始まり、永観堂までの琵琶湖疎水に沿って続く道はほぼ2キロ。この散策路を左側に流れる疎水とその背後の森、右側のかわいらしい商店を眺めながら、急ぐことなく歩くと約50分かかる。
日本の哲学者西田幾太郎が好んで散策したことから、その名がついたということだが、京都に訪れたほどんどの人が一度は立ち寄るところだ。
勉強のために始めて京都に来たときには、部屋から銀閣寺へ行く方向がわからずタクシーに乗ったが、なんのことはない、部屋のある路地を出て左にずっと約30分ほど歩けば、哲学の道に出る。バスに乗っても近い距離だ。
私はひまを持て余すとよくこの道を歩いた。いや、思ったよりも勉強が大変で持て余すようなひまもなかったので、淋しくなるとよく歩いたという方が正解だ。
春、樹齢二百年以上の桜が疎水に沿って長くその両側に咲くが、水面にまで垂れた可憐な花はほんとうに愛らしい。夏も秋も、また京都の真冬に一度は降るという牡丹雪の日ともなると見るのも惜しかった。
ホタルの生息地でもあり、五、六月にはホタルが繁殖するという寺の標識もあるが、私がその寺に行っていないせいか、今ではいなくなってしまったのか、これまで目にする機会はなかった。
入り口から左側にのびた路地は、かの有名な観光地である銀閣寺に続く道で、お店が仲睦まじく並んでいるが、ご飯が特においしいことで有名なお店で、ほどよく硬めのごはんと焼き鮭一切れとおかずを少し包んでもらって、右側の哲学の道を歩き始める。
ほとんど毎年春には‘哲学の道’に咲き誇る桜を眺めながら歩くが、いつ見ても見飽きるということがない。永い冬を耐え忍んで眺めるからだろうか、この春にも「希望があるよ」と淡いピンク色のメッセージを手をふりながら伝えてくれる。
花を見、水を見、人を見ながらしばらく歩くと、途中に見目のよい丸い碑石がある。この道を歩いたという哲学者西田幾多郎の詩“人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり”が刻まれている。
さらに歩くと、今度は左側に鬱蒼とした森が現れ、数十メートルの高さの木々が隙間なく立ち並んでいるが、なんとなく空気の味も変わり、霊験とした雰囲気に足を止めることになる。何年もの間花と水に視線を奪われ気づかなかった。水に接する大きな深い森を今初めて見るかのようだ。年ごとに見る目はこんなにも変るものなのだなあと、われながら驚く。
世界各国から来た人々とともに狭い散策路を歩くと、互いに目を合わせることもあるが、そんなときは互いの心を分かり合っているかのように明るく笑う。互いに異なる言語をあえて翻訳しなくともテーマを互いに理解する。途中途中名も知らぬ黄色い花や紫色の花が足元に咲いており、2、3メートル幅の狭い疎水には、腕よりも太い真っ黒な魚の姿も見える。小さな橋を渡ると左側に伸びた路地には茶店や陶磁器の店があり、その路地に入ってみると森の中に古い寺刹が隠れている。
50分ほど歩き疎水の終わりにさしかかると、左にのぼると同志社大学を建てた新島襄とその妻八重の墓があるという標識があり、さらに行くと永観堂と南禅寺にいたる。規模の大きなその有名な二つの建物に入り一通り見学して出れば、とても長かった散策も終る。
時間に余裕があり、このコースを最後まで辿ることができれば、それは幸運だ。
千年前、数百年前に立てられた建築と、機具もろくになかった頃にそれを苦労して建てた人々の人生と苦悩、そしてそれを千年もの間伝えてきた偉大な精神と、私たちが今を生きる現世、そしてこの現世を次の世代につなぎ渡してゆかねばならないこれからのことを、‘哲学の道’にふさわしく思い悩みながら歩くと、周囲の自然、水や花や風、かさっという木の葉の音すらメッセージであるかのように聞こえてくる。それが日暮れ時なら、竹やぶの揺れる音とともに空を染める夕焼けも眺めることができる。
沿道の右側にある店に入って、誰かが苦労して作った繊細かつ精巧な指輪、腕輪、財布、ハンカチ、団扇等の工芸作品を眺め、再び歩いて京都の有名な化粧品会社が運営するカフェ‘よーじや’で手入れの行き届いた庭園を静かに眺め、鮮やかな緑の抹茶一杯を傾ける余裕を持つことができれば、それは間違いなく、その日が自らの内なる声に十分に耳を傾けた日であったことを意味するだろう。
‘哲学の道’にあるかわいらしい店のひとつが私の家だったら、今日に限ってそんな思いにかられる。
雨が降る
ふたたび咲いたこの季節 春の花の上に
舞い散るわたしの髪の上に
哲学の道
千年の古都 京都に