2017 9 2
李承信の詩で書くカルチャーエッセイ
その日が来ることも知らずに生きる
「誰もが一度は逝くけれど、私たちはその日が来るのも知らずに生きています」 急逝した橋本明先生の東京での追悼式で司会者の語った言葉だ。
同じ日同じ時刻に千余名もが追慕に訪れたのは、橋本先生が尊敬に値する人生を生きたことの証だろう。生前の交流と広い人脈をあらわすように、日本の各界各層から人が集まった。
初めて橋本先生に会ったのは4年前、東京における私の出版記念会でだった。まわりの勧めでソウルで出版記念界を開いたところ、東京でもするべきだと勧められた。東京に住んでいるわけでもないのでどれだけ人を集められるか自信がなく、費用も相当かかるので反対したが、結局することになった。その前夜、ソウル光化門の崔書勉先生を訪ね、大きなホールを埋めなければならないので、心当たりの方がいればとお願いすると、手渡した本には見向きもしないまますぐに東京の知人何人かに電話をしてくださった。
そうして翌日、橋本明先生が東京の出版記念会に参席くださった。行事の後、挨拶の長い列ができ、橋本先生の番になり、感激したというお言葉をいただきながら握手をしたが、私はそれが誰なのかも知らなかった。
崔書勉先生によれば、出版記念会に参加した何人かの日本人から「私と詩に何の関係がありますか」と不平たらたらだったが、行かなければ後悔するところだったと言っていただいた。その後、橋本先生は三度もソウルに来てくださった。
橋本先生は、共同通信の著名なジャーナリストとして多くの著書をもつ作家だが、学習院の初等科から大学までを当時の明仁皇太子と過ごし、今上天皇の同期同窓として広く知られている。父は検事、内閣総理大臣を務めた橋本竜太郎と高知県知事を務めた橋本大二郎は父方の従弟という家門だが、王族や貴族の通う学習院といえども、皇太子を迎えることは数十年に一度のことだ。36名と37名の2つのクラスのうち、皇太子は36名のクラスだった。クラスメートも厳選されたはずだが、橋本先生はそこに入った。
日本では、天皇の学友を同期生とは言わず‘ご学友’と丁寧語で呼ぶ。葬儀場にはサッチャー元首相等ヨーロッパの国家元首たちとおさまった写真の前に、生前の著書が並べられたが、『美智子さまの恋文』、『知られざる天皇明仁』等、天皇皇后に関する本は4冊もある。
短い間のお付き合いだった。ソウルで三度、東京でも三、四度、京都で勉強中にも訪ねてきてくださったことがあり、秋田でもお会いした。秋田はクラシック音楽が盛んで、毎年バチカンで合唱に携わってきた橋本先生が、日本の作曲家に私の詩に作曲を依頼し、オーケストラと合唱団による音楽会を催したことがある。先生はご夫婦で来られ、私とともに舞台でスピーチをした。東京でも同じ音楽会を二度したが、私は勉強のため行けなかったので、二千名席の音楽ホールで、橋本先生が韓国で作られら詩に日本で曲がつけられた経緯を説明してくださりもした。
橋本先生は情に厚く、とても人間的な方だった。先生は韓国を勉強する東京の‘日韓談話室’の代表も務め、ソウルから講演に来る91歳の崔書勉先生のことを常に心配し、万一のことがあればすぐに知らせてほしいと私に言っていたのだが、その方が先に逝ってしまった。
最後にお会いしたのは、5月27日、日韓関係の最高権威である崔書勉先生について橋本先生が書いた『韓国研究の魁 崔書勉』の東京での出版記念会だった。ぜひ参席してほしいと電話があったので駆けつけると「本当に来ましたね」といって喜んでくださった。崔書勉先生を長年見続けて書いた本の出来栄えに満足したのか、壇上でもたくさんのお話をされた。
あんなにも健康そうだった方が、翌日病院に検診を受けにいき、二ヶ月の入院後にそのまま逝ってしまったとは、信じられないことだ。もっと残念なのは、橋本先生が、1974年の文世光事件(陸英修女史被殺)に関するインタビューのため初めて韓国を訪れて以来親韓派となり、日韓関係に関するたくさんのコラムと文章を書き、日韓関係が過去を越えて未来に踏み出すためには、天皇の訪韓が最もよい契機となるだろうと主張し、その実現のために努力していたためだ。
日本の葬儀は韓国と似ているが、いくつか異なる点も目につく。極めて静かで敬虔だった。特に驚いたのは、ソウルからご夫人にお悔やみの電話をかけると、突然のことにも悲しむ様子もなく、いつもよりも明るい声音だったことだ。父の急逝に1年も入院し、葬儀にも出られないほどに悲しんだ母のことを思うと、今も胸が痛むほどなのに、悲しむそぶりのないことが理解できなかった。崔書勉先生に「これはどういうことでしょうか、韓国人は泣かなければおかしいと思われ、お金をやって代わりに泣いてもらいさえするのに」と聞くと、「それが日本人の教養なのさ」とおっしゃった。
逝去から十日後の夕刻にお通夜をし、翌朝が葬式だった。韓国では葬式前の三日間にいつでも訪ねて行って別れを告げるが、日本では時間を決めて一度に集まって弔う。たくさんの人が集まり、ホールの外にも数百人が列をつくり、一人ずつ別れを告げた。敬子夫人は通夜では黒い洋服を、葬儀には黒い着物を着た。海苔とお茶と鮭の香典返しをいただいた。二階の大きな食堂での食事は日本らしくお寿司だった。
通夜と葬儀に参席し、明るく笑っている写真と棺のなかの姿を見つめながら、朝鮮半島と東北アジアに危機がおしよせている今、両国の深く厚い関係のための "巨星"を失ったことが惜しまれてならなかった。
死が悲しいのは、この地上で二度と会えないからでもある。 こうして目で見ていても、私たちはその日が実際に訪れることを知らずに生きているが、願わくは、橋本先生が43年間抱き続けてきた韓国への愛と、よりよい日韓関係のため心を尽くして献身してきた先生の熱情が冷めることなく、日韓両国に引き継がれていきますように。
次は誰が帰らぬ人となるものか知らず葬儀の列に連なる
孫 戸 妍
削っても削っても長くなる上記拙文を、歌人孫戸妍は遥か昔に一行でこう縮約している。
ホールにおける敬虔な通夜 - 東京 2017 8 24
学習院高校時代の遠足。左が今上天皇、右から二番目が橋本明先生
生前著した多数の著書のうち、天皇に関する本が4冊。右端は最新作の『韓国研究の魁崔書勉』
来賓質の外まで列をつくる数百名の弔問客
橋本明先生(右)の出版記念会で講演する崔書勉先生 – 東京 2017 5 27
たくさんの献花の中に崔書勉先生の名前が見える
ポスター右の文句‘愛する私に帰ってくる場所’
第10回ラジオ歌謡音楽祭 – 日本 秋田県 2016 9 25
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