傷
京都に来ると、春だろうと秋だろうと、夏だろうと冬だろと同志社大学の真向かいにある御所に立ち寄ることになる。
そこは入場料もなく、門も常に開いているので、広い敷地内を悠々と歩くこともあるが、
閑寂としてスケールのある敷地を横切った方が近道なので、そのときごとの目的地に近
い門から出るために入りもする。
すらりと高くのびた数百年は経っていると思われる一抱えもあるような美しい木々が目に
つく。韓国の王宮でもそうだが、京都の御所でも美しく品のある木をみると、これらの木
々はどのような縁と背景をもってこの敷地内に根をおろし、尊ばれるようになったのかと
ふとそう思う。
季節によりさまざまな種類の花がきれいに咲き、夏には生い茂る青い葉がさわやかで、秋
には色とりどりの紅葉と黄色い実、手のひらよりもずっと大きな銀杏の葉も目につく。
私は初めてここに入ったのは、四月の初め、桜の季節だった。20余万坪の広々とした敷地
の北のはずれ、同志社大学に近いところに地面にまで垂れた十本余りの素晴らしい枝垂桜と
であった。世界中の桜を見たがこれは本当に特別な桜の群生だった。比較的遅く咲くその
桜は京都の他の場所の桜が全部散っても、晩春まで輝く姿で私を迎えてくれた。
この桜を見ようと思えば4月初旬が見どころだ。眺める人々はみな顔が明るくなり、美し
いと褒める。長い冬を越えて迎える華やかさに、縮こまった心を開き互いに微笑みあう。
既に何度も見た私は、さまざまなところから訪れて来た人々に、この桜の前で出会ったと
いうだけの理由で、この桜の特徴と見る角度によって異なって見えることを説明し、自ら
すすんでよい位置で写真も撮ってあげたりした。私とそこにいる全ての人々の目はただ、
華やかでありながらも慎ましい爛漫と咲く桜にのみそそがれている。
そんなある日、桜の前から立ち去ろうとして名残惜しげにふり返ると、20余メートル
の幅の桜の群生から遠く離れて立つ木の根元の醜い傷が目に入った。胸にじんときたそ
の瞬間の感動が忘れられない。華やかな桜に隠れたでこぼこのその傷跡に目を向ける者
は誰もいない。
このもろくて軟らかい桜がただ咲いたものではないことに気づかされた瞬間だ。その苦労
と苦痛、1年のわずか何日かを咲くために休む間もなく繰り返されてきたその木の犠牲と
献身、その営みがはっきりと思い浮かべることができた。私は引き返して管理番号票が
つけられた不憫なその幹をなでさすり抱きしめた。
春にだけ御所の北の端にあるその桜を訪ねていたが、その後花も葉もみな落ちて肌寒
くなった季節にも訪ねるようになった。全く異なる環境と全く異なる姿なので、どこだっ
たろうかときょろきょろしながら探さねばならなかった。これがあの木だったろうかと
何度も確認した。そこには誰もいなかった。春に花が散り青い葉が茂り出しそのすがすが
しさも消えると桜の木は他のどんな木よりも先に紅く色づく。そして他の木が色づく前に
全ての葉をふるい落とし裸木になるとそこに大きな瞳孔のように穴をあけた傷が赤裸々に
現れるのだ。
真冬に命を使い果たしたようなその木は、命がけで土の中の水を吸い上げ、命を育んでい
た。私は久しぶりにまたその幹をなで「元気だった。またピンク色の花を咲かせて世の中
をびっくりさせてくれるのよね。そして長く厳しい冬を耐え抜いた人々に、また希望を与
えようとするのね。そうでしょと語りかけると幹に押し付けた私の耳に木が水を吸い上げ
る音で木が応えた。
誰にでも苦難はある。誰にでも傷はある。
傷は痛い。しかし、だからこそそれはさらなる生命を咲かせるだろう。あの桜の木のよう
に。
試練のない人がいるだろうか
傷のない人がいるだろうか
傷よりもさらに大きなものは愛
それで傷をふさぐ
冬の桜の木 – 京都 御所 2016 12
復活の4月、同じ桜の木 – 京都 御所 2015 4 7
横から見た同じ桜のハート - 京都 御所 2015 4 7