大田の顕忠院に埋葬されました。6.25(朝鮮戦争)の孤児たちのために建てた‘白善孤児院’の出身者たちが、育ての父親の前で涙を流したというくだりには胸をつかれます。 これが最後になったらどうしようと、焦る思いで将軍にお会いしたこともありますが、いざこうして亡くなられてみると万感胸に迫るものがあります。文章を書こうとしてお会いしたわけではありませんが、その精神力と記憶力と霊感に驚かされ、‘生きている伝説’として何度かとりあげたことがありますが、今本物の‘伝説 Legend’になりました。 訃報に接するや様々な場面がパノラマのように脳裏をかすめました。映画や夢のような数々の場面のうち、最初と最後の出会いは特に鮮明に覚えています。 2007年10月のある日、白善燁将軍に初めてご挨拶申し上げたときのこと。平壤師範を出た将軍が私の父と互いに知った仲だったのかが気になっていましたが、同期でないから知らないと言われたらどうしようと心配が先立ちました。そうしたら戦争について知ることのない私は、救国の英雄にして、大韓民国国民であれば知らぬ者のない方を前にして他に何を話したらいいのだろうと。 職業軍人というと緊張してしまいますが、将軍は戦争記念館の事務室であたたかく接してくださり、幸い2年先輩の父のこともよくご存じであれこれと詳しくお話ししてくださったので胸がいっぱいになりました。平壤師範を卒業した後、それぞれ別の道を歩んだにもかかわらず、父の人生をこと細かに記憶しており、母の歌集も読んだとのことでした。 名声轟く将軍のイメージとは異なり、第一印象はとても庶民的で素朴さが感じられ、父の洗練さとは少し違う様子でしたが、その信実さと慎重さ、80年以上も前の出来事をこと細かく覚えている記憶力は驚くほどでした。 「私は何よりも正直だ。だから米軍の司令官は私の言葉を信じてくれた」とおっしゃいました。 13年間の将軍との交友で記憶に残っている言葉もたくさんあります。 「生涯をかけて人を救い国を救うことに全力をつくした」 「平壤師範に通っていたころ、なんとしても日本に勝とうという心でお父さんも私も愛国心にあふれ熾烈に勉強したものです」 「米軍が持ちこたえてくれたおかげで、安保、国防だけでなく、全世界を相手に韓国の貿易投資経済が成長したのだ」 「李先生にはこれまでよいことも大変なこともあっただろうが、神様がおられるから生きてきたことはきっと報われる。そうならなかったとしてもそれが人生です」 お会いするたびに、頭の記憶力や心の精神力、愛国心というものは百歳という年齢とは関係がないことを感じさせられ、謙遜で何よりも人間的な面を常に見せていただいたことを忘れることができません。 いつでもおいでなさい、とおっしゃっていただいたのに、あちこち飛び回るのに忙しくときどきしかお会いできませんでしたが 、6月25日が近づいてくると足と心は自然と戦争記念館の将軍の事務室へ向かいます。 1950年8月、わずか20代にして将軍となり、洛東江の多富洞戦闘で先陣をきり、尻ごむ部下たちに進むべき方向を示し続けた話や、同年10月仁川上陸チームを説得して戦術を変えさせ平壤まで昼夜歩き通し、金日成の執務室に果敢に突撃した話を何度も聞いた。恋愛しているときには軍隊の話はつまらないものですが、将軍の逆転反転のお話しはいつも感激的でした。 「百歳なんて、どうってことない」 「一生の大半が悔いることばかり」 お暇しようと部屋を出がけに投げかけられた言葉は告白のようでもあり、晩年の悔恨が色濃くにじみ出ていました。 故郷の平壤が懐かしいでしょう、行きたいでしょう、と聞いたとき、「いや、共産化された平壤にはいきたくない」とお答えになったことも思い出されます。当然懐かしいとお答えになるとばかり思っていました。 「戦闘で死ぬことよりも負けることのほうが嫌だった」ともおっしゃいました。 Legend という言葉がありきたりになったこの時代。 ‘本物の生きた伝説’に接することは感謝であり、喜びであり、学びであり、そして深い懐かしさでした。
老兵は死なず ただ消え去るのみと どこかから私たちを 見ておられる将軍
国なくしては私はないと おっしゃったその心を知り 青年たちが焼香所を設け たくさんの軍人が梅雨の中で 行列をつくりました
国を思って心煩わせながら 百年を耐え忍んでくださった将軍 これからは私たちの番 悔恨の荷をおろし 安らかにお眠りください
さようなら、戦友よ Farewell, friend
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