「私が退くのを見たら、君たちが私を撃て」 白善燁将軍が6 25戦争(朝鮮戦争)のとき、将兵たちに常に語った言葉だ。 今年で百歳。 「将軍、百歳を振り返ると感慨が…」と言い終わるより先に、「百年なんてどうってことない」と言葉がかえってくる。29歳で将軍、33歳で韓国軍初の四ツ星大将となり、命懸けで国を救った‘国家の英雄’の言葉だ。
それからは勇ましい声で一瀉千里。一番記憶に残る場面として、多富洞戦闘についてこと細かく語りはじめた。北朝鮮軍は慶尚道多富洞まで攻め寄せ、一歩遅れていたらすぐ隣の大邱と釜山が焦土と化していただろう。装備もろくになく、創設間もない韓国軍は実力差があまりに大きく、米軍は相手にもしなかったが、仁川から入ってきたマッカーサー部隊が立てた、回り込んで平壤に出る作戦計画を変え、直接平壤を突くことを何度も主張した。 ‘Pyungyang is my hometown, I know the way’平壤師範で学んだ英語だった。 最初は信じなかった米軍団長も、白将軍の態度と覇気、その精神力を見て許可した。そうして昼夜を歩き続けついに平壤を一番に奪還した。何度聞いても信じられない話だ。百歳にもかかわらず依然として人間離れしたその記憶力は、あらゆる細部事項に及び、常に若者たちを驚かせる。 「二十代の軍人のどこからそんな力が出たのですか」と問うと、「これが最後だ。全部終わりだと思うと勇気が出て、国を救わねばという一念でそんな精神力を発揮できた」と言う。満州で学校に通ったとき中国語も学んでいたので、中共軍の捕虜を直接尋問し、米司令官の中国語通訳も務めた。そうしたことを知ると、神様がこの国を救うために白善燁将軍を平壤に生まれさせ、育て、用いられたとしか思えなかった。人間の頭では推し量れないことだ。 その後、当時中華民国だった台湾、フランス、カナダの大使として、また、常駐大使のいなかったスペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク等のヨーロッパ諸国及びアフリカ諸国まで、19の国家の大使職を務め、交通部長官(国土交通省大臣に該当)としてソウル初の地下鉄工事を行い、6つの肥料工場など公共機関の長として日本に資金借りに行った話をはじめ、国に捧げた彼の多角的な人生の話を聞くと、百年は決して「どうってことない」とは言えそうもない。 将軍と向き合うと、その心と精神力が私にも伝わってくる。今は大人のいない時代というけれど、勇気百倍、機運百倍を百年間ずっと持ち続けた方がここにいらっしゃる。そうした態度に接すると、大部分の人が求める所有や権力が人生に何の意味があるだろうか、存在が全てだという思いが自然にわく。
対話のところどころで「私はこう見えても平壤師範の出なんだ」という言葉が出る。いつもなら私の父も同じ学校の出身だと聞き流していたが、今日は、あっ平壤、平壤師範って何か違うのだろうか。世界が無視してきた小国の平壤の金正恩チームが、米朝会談、南北会談を手際よくこなしてきたことを見た。冗談のような「こう見えても~」という言葉に、何かが違うのではという思いがふとかすめる。お会いするたびに、平壤師範に通ったことを限りなう誇りとしていることが感じられる。同じ学校を出た私の父を意識してのことだとは思えない。
現在の時局をとても心配しておられる。数多くの将兵たちを失い、命懸けで守ってきたこの国だ。「平壤を奪還したときは、金日成の部屋に攻め込んだんだ。70年間見続けてきた彼らに勝つ道は戦うことしかない。戦うことを恐れる国は勝つことができない」
「生きてきたほとんどのことが遺憾ですなあ」という言葉を後にして部屋を出たが、なぜか1階をまた見たくなった。
将軍の事務室がある戦争記念館の1階、外部に開かれたロビーには国内の170万名を超える戦死者の名前と、36,574名の米軍戦死者の名前が刻まれている。米軍戦死者の名前の上には、‘Our nation honors her sons and daughters who answered the call to defend a country they never knew and a people they never met (全く知らない国、一度も会ったことのない国民を守れという招命に応じた我が息子娘たちに敬意を表します。)’と書かれている。ワシントンの韓国戦争記念公園にも書かれている文句だ。見るたびに常に胸が痛む。
米軍が支えてくれたので、安保だけでなく、世界を相手どった貿易投資経済がなされるようになったのだとおっしゃった。
俗世間に出てしまえば忘れることもあるが、‘生きた伝説’白善燁将軍がこの世に存在しておられることが有難く、いつでもお出でなさいと言ってくださったこともただ有難い。
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