‘見えないもの(invisible)が見えるもの(visible)より重要だ’と聖書に書かれている。成熟とともに悟らされる言葉だ。
私がニューヨークに初めて来たのは1975年。考えてみれば勇敢だった。いや無謀だった。
仮の住まいをどうするか尋ね尋ねて決めたのが International Houseで、Columbia 大学の近くだった。映画でみたような切れ切れのイメージの破片だけをもってやってきたアメリカだった。アメリカの歴史や文化をろくに学びもせずに、TOEFLを受けて Visaと入学証をもってやってきた。
分厚い梨花女子大の卒業アルバムの写りの悪い親指の爪ほどの私の写真に、いくつか丸をつけて結婚の意思を探ってくるのを避けて、次の段階の勉強をしようくらいの気持ちだった。世界を変えようというような大きな野望を持ってやってきたわけではなかった。漠然とアメリカに憧れる雰囲気が韓国にはあった。両親の勧めや強要はなかった。
ニューヨークの街を見学しようと、アメリカに来て慎重に選んだ服でおめかしして出てみると、道には真っ黒な黒人たちがぶらぶらと歩き、ぐったりと寄りかかって座った目が私を見上げた。怖くてぞっとした。後で知ったが、そこがハーレム(Harlem)だった。クリントン大統領が退任後そこに事務所を開き、街がずっとよくなったとはいえ、当時は避けて通る地域だった。
近くに見える勇壮な教会に近づいてみた。アメリカの富の象徴であるロックフェラーが建てたいくつかの教会の一つRiverside Churchだ。てっぺんに登り不慣れな土地ニューヨークのたくさんの建物を見下ろすと、居場所も知り合いもいないという悲しみが押し寄せてきた。父が私を荷物を放るように置いてソウルに行ってしまった後のことだ。
その後すぐ、ワシントンのジョージタウンGeorgetown大学での勉強と生活が始まり、2年後には弟がニューヨークへ来た。姉がいるからと無条件に来たようだ。5人兄弟を育てなければならないその時代の両親に、いちいちそんな勧誘をするひまもなかった。弟は来るやいやな電車に乗って姉を訪ねてきた。アメリカの天地に血で繋がった姉弟二人だけ。私たちは手を握り合ってうれし涙を流した。
その後は週末ごとにニューヨーク行きの電車に乗り、弟のごはんを作りに行った。国際電話は費用が怖くてかけられもしない時代だった。第二次世界大戦当時収容所として使われていたというColumbia大の John Jay寄宿舎の部屋は手のひらのようだった。母のようにユーモア感覚のある弟は、文句をいうかわりに「机に座ってこうして腕を伸ばせば冷蔵庫を開けられるので楽だ」と言った。そのように毎週末ニューヨーク行き電車に乗り、狭い部屋で一緒に眠りもした。
難しい勉強だけでなく、暮らしてゆかねばならない私たちは、ソウルから登録金とお小遣いが届いても、いつもポケットはからだった。だからといってソウルにSOSを打つことはしなかった。稼がなかったので常に不足で窮していた。
両親の元でなに不自由なく学校にだけ通っていたころのことがぐっと胸に迫ってきた。だからといって帰ることもできなかった。節句や誕生日、クリスマスイブや年末には St. Patrick 教会にも行ってみたが、私たちはマンハッタン市内の豪華ホテルである The Plaza、The Pierre、Carlyle、St. Regis に行っては、華やかで高級なロビーを楽しみ、ソファに座ってみもした。そして大晦日には Time Squareに行き、幾重にも重なるアメリカ人たちとともに3, 2, 1と叫び、新年を迎えた。
ニューヨークの冬はとても冷たかった。唇が切れ、頬が凍えた。韓国に行けば大部分忘れてしまうが、ここに来さえすれば、30~40年前の人生が映画のシーンのように流れ出す。ニューヨークのPlaza Hotelの前に立つと、そこで撮られたバーブラ・ストライサンド、ロバート・レッドフォードの切ない映画‘The Way We Were’も思い出すが、ずっと昔の私たちの人生と愛の物語も思い出す。
40年前のニューヨークもソウルのように地価がうなぎ上りだったという。どこを見てもビルを高く高く建てていた。数十年を経て来たここには部屋の一つもないけれど、それでも依然としてそこに建っているニューヨーク名物の Plaza Pierre Carlyle で今や優雅にお茶を飲むことができる。
寒く、貧しく、寂しかったその時代が昨日のように思い出される。しかし、思えばあのときは眩しい青春であり、何よりも両親が生きて健在だった。純粋で胸一杯に希望があった。
こまごまとした何を買うにも、何に乗るにも目にみえる(visible)お金が必要だったあのころ、目に見えない(invisible)そんな特恵が私にあったことを知っていただろうか。そんなものはいつでもそこにあり、努力すればその上にさらなる成就が一つ一つ積み重ねられていくものだと思っていた。
生涯のどの時点であれ、たとえどん底最悪の場合であっても、祝福は常にそこにともにあることを、そしてそれに気づけないだけだということを、いまさらながら悟るニューヨークの散策だ。