私たちが世界情勢にふりまわされている間に、ドナウ川の遊覧船事件は一段落したようだ。静かになったようすをみると。遺族以外の誰が今それを記憶するだろうか。
私は今二ヶ月ほど身動きができない状態だが、家への帰り道に光化門入口のセウォル号を称える仮設物を通り過ぎるとドナウ事件を思い出した。青天の霹靂のような船の沈没事件としてどちらの死がより深いものだろうか。
悲しいのは、そうした試練から国民が何か大きなことを学び、心機一転できなければならないのに、私たちが学んだ Lesson はないということだ。
思えば、ハンガリーの人々がドナウの川辺に集まり、アリランを歌ったことは感動だった。
ハンガリーのブダペストフェスティバルオーケストラBFOによる芸術の殿堂音楽会では、団員たちが犠牲となった韓国人を追慕するために、楽器の代わりに楽譜を手にして立ち上がり歌をうたったという。
‘月出峰に月が出たら私を呼んでほしい。待っても待ってもあなたは来ない。洗いものの音、水車の音に耳を傾け~’韓国歌曲の‘待つ心’だ。愛する人を待つ切実な心情を訴えるその歌を、悲しみに満ちた声と表情で歌い上げるや、客席にはしばし沈黙がひろがった。
言葉で聞いても感激なのに、その場にいたらどれほど強い感動が胸に迫ってきたことだろうか。カーテンコールが6回もあったという。指揮者である巨匠イヴァン・フィッシャーが35年間率いてきた世界的オーケストラだからこそのこととは思うが、あの事故と無関係ではないだろう。
その場に居合わせることはできなかったが、私も何年か前にブダペストでイヴァン・フィッシャーが指揮するブダペストオーケストラのコンサートをゆったりと聴いたことがある。ある晩にはドナウの船にも乗りもした。まさか遠からずこんなにもひどい事件が起ころうとは想像すらできなかった。
ドナウ川という言葉を聞くと、幼いころからなぜかロマンチックな感情につつまれた。遠い異国だからということもあったろうし、ドナウというその発音が歌のようにロマンチックだった。今度の事件が起きるまでは。
子守りをしてくれた両親への感謝の贈り物として、記念日の思い出として、さまざまな理由から人々は思い切って旅に出たはずなのに、やりきれないことこの上ない。既に死んでしまったけれどせめて遺体だけでもというのが遺族の切実な願いだ。深い水の中を探しに探したけれど、結局どうしても一人だけ見つからなかったという。遺体の見つからなかった遺族は遺体をひきとれた人々をどれほど羨んだことだろう。
船室の入口で見つかった、両腕でかたく抱きしめあった6才の孫娘と祖母の遺体は、何ヶ月経っても忘れられない。
「ハンガリー国民と私たち団員は心からご遺族の悲しみに寄り添い、お悔やみの気持ちを伝えたいと思います」、そうイヴァン・フィッシャーが言って、講演に先立ち犠牲者のための哀悼曲、指揮者自身が選択した歌曲‘待つ心’を一緒に歌った。プログラムには「今夜、音楽が私たちの心情を代弁してくれました。この惨事を永遠に記憶するでしょう。音楽が慰めとなることを願います」という、ハンガリー大統領の追慕の辞が記されている。
慰めるというのは‘真心’を伝えることだ。共感することだ。金銭を握らせることとは次元が異なる。
何年か前、東日本を津波が襲い何万人という人々が飲み込まれてしまったことに、寄付金を胸にソウルのKBS放送局に長い列をつくった人々を見たときにもそう思った。ああ、そうではない。今朝顔をみたわが子が、夫が、妻が死んでしまったというのに寄付金だけを送っても…。
走る自動車を荒波がさらい、車の中に残された父母を失った6才の子や、愛する人の遺体を捜し求めて毎日深い海の中にもぐる人の姿を見ていると、私の中のどこからか250首の短詩があふれ出た。アメリカやヨーロッパのいろいろな国から寄付金が殺到したが、その詩が日韓の新聞に同時に掲載されると(2011 年3月27日front page)、日本人は彼らが‘心の故郷’と呼ぶ‘短歌’のようなその詩の一行にこめられた真実に感動した。
1892年に朝鮮と友好条約を結び、1989年には東欧圏として初めて大韓民国と外交関係を結んだ国、ハンガリーから届けられた真心の‘音楽の贈り物’を聴いて、思い出したことどもだ。
文学と芸術は慰める力が強い。