6 25(朝鮮戦争記念日)が近づいてくると、最近お会いした百歳の白善燁将軍の洛東江多富洞の戦闘はもちろんですが、母の残したたくさんの6 25短歌も思い出されます。
釜山に疎開し、知人の倉庫を借りて住んでいたときの苦労も並大抵ではなかったはずですが、その3年間は紙もペンもなく、湧き上がる詩想を書きとどめることもできなかった、と母が書いています。
東京留学後、ソウルの舞鶴女子高で家庭科を教えていたころ、平壤から来た商工部の公務員だった父と結婚してすぐに起きた戦争で、外祖父母とともに草梁に避難しましたが、そのとき頭にあれこれのせて売り歩いたせいで、老後に脱毛になったという話を聞いたことがあります。
薪もない冬の寒さは刀で切られるようで、食べるものもない混乱の中で、早稲田大学出身の外祖父は拉致されてしまったといいます。戦争が終わり帰って来た人々の中に父親の姿だけがなく、毎日路地で首を長くして待っていたという切ない短歌がたくさんあります。
'終りとは知らずに父とせし夕餉灯火管制のうす暗がりに'
'あい続き亡命客は帰り来る帰らぬ一人父恋おしけれ'
空襲で防空壕に隠れると、中共軍がその中に銃を打ち込むので死体であふれたという父の言葉も思い出します。
20代で経験した戦争の惨禍が体に沁みついたように、普段そんなことは言わなかったのに、20余年前私がアメリカから帰国しようとすると、「戦争のない国でもう少し過ごせばいいのに」と母が気をつかって言いました。「戦争なんてありえないわよ」と太平洋越しに自信をもってそう言って帰国した私は、最近の騒がしい状況を見るにつけ、亡き母のあの言葉が喉に刺さります。
'隙間風防ぐとかけし紫の裳(チマ)の襞透かし月影射しぬ'
見かけはロマンチックなこの短歌を、自身の短歌のうち最も気に入っているものの一つと母は言いました。
薪もなく冷え切った部屋で、すきま風を防ごうとかぶせたスカートの襞を、戦争などどこふく風といった月の光が照らしているという情景でしょうか。戦争の混乱の中、感性の鋭い歌人の目だからこそ見える月の光ですが、その内面をのぞきこむとロマンチックとはほど遠いようです。
太平洋を隔てて私とはずっと離れて生きてきた母の短歌の背景や裏話、その意味を聞いたことはほとんどありませんが、この短歌の話だけは聞いたことがあります。母の3千首におよぶ短歌のうち、どれが一番好きかと聞いたときのことだと思います。
'もろともに同じ祖先をもちながら銃剣取れりここの境に'
'興亡の絶間なかりし歴史なり又も書き添へむ三八線と'
'壕の内座りゐるままの屍を踏み越え踏み越えわれは出でゆく'
'婚約の指輪なれども米となり空爆の日の命を保つ'
'足どりのもどかしきなか女装せる弟を囲み監視地区出づ'
日本近現代‘昭和万葉集’に韓国人である母の 6 25(朝鮮戦争)の短歌五首が入っています。朝鮮戦争がなかったら世に出ることもなかった短歌たちです。
6 25を迎え、その凄絶な戦争の記憶から娘だけは戦争に巻き込まれることのないようにと、やっとの思いで打ち明けた母の言葉。この言葉だけは間違いであってほしいと願っています。まだ母の言葉がはずれたことはありませんが。
戦乱のその冬なりぬ薪なく君と抱きあい温めて眠し
戦争の惨禍によってこんな恋歌も生まれることになりました。