六疊房 2019 1 22
李承信の詩で書くカルチャーエッセイ
六 疊 房 詩人の尹東柱が1940年代の日本留学時代に住んだ部屋が六畳間だったというが、70何年後に同じ大学に留学して私が住んだ部屋も同じ大きさだった。 同志社大学の寄宿舎情報をみると共同キッチンだったので、一人部屋を探すために早めに日本へ行った。予算は寄宿舎の何倍かで見たが、それほど高くもないせいか一日6部屋を見てもみな似たようなもので、部屋探しを手伝ってくれている人にも申し訳なく、最後に見た部屋に決めたが、すぐ後悔した。狭かったせいだ。小さなバスとトイレとキッチン、そして中二階があるが部屋は三四坪程度だから尹東柱の詩にあるあの六畳間だ。 変更したかったが、一度帰国して来月また京都に来れば勉強も始まるので、そんな時間も心の余裕もなかった。 使い慣れたお箸、器、カッター、ハサミ、タオル、鉛筆、物差し、セロテープ等は全てソウルの家に置いて、本とノートブックコンピューター、服を少し、厚めの毛布だけを持ってきたが、置いてきたものは全てすぐにでも必要なものばかりで、それに思い至らなかったことを後悔した。口では長期間の勉強のためと言いながらも、何泊かの旅行のような気軽さで来てしまった。 何日かあれば揃うだろうと思ったのは大間違いで、何かを買えば何かが足りずを繰り返し一通りのものを揃えるのに優に二ヶ月かかった。まわりの留学生に聞いてみると、その人は六ヶ月かかったという。 ところで、そうしたものよりも初めから目について買ったものは観葉植物だった。狭苦しかったせいだ。部屋の窓からの眺望が開けていればそうでもなかったのだろうが、2メートルと離れず低い建物が建っていて視界をふさいでいた。息をするために鉢植えの花とみれば買いこみ、十何個かを窓の外の地面に色合いを考えて並べた。アメリカでの暮しとは雲泥の差だ。何かと面倒をみてくれる学生が、「まずは炊飯器から揃えないと。なんだってそんなに花ばかり買うんですか」とむずかった。 夜、部屋に帰ってくると、まず窓を開けて花に水をやる。花びらとかよわい葉がゆらゆらと迎えてくれる。卒業して帰国する際、生活用品はほとんど後輩に譲ってきたが、私に笑いかけ、慰めてくれたかわいい鉢植えの花たちを持ち帰れなかったのが一番残念だ。 晩学の勉強が容易なものではないことに気づくのにそう時間はかからなかった。日本で勉強するためには基本は日本語なのに、十分でない日本語で20課目をこなすことは本当に難しいことだった。 2011年、日本を大津波が襲ったことで日韓両国で出版された私の詩集が話題になると、日本から日本語でスピーチをする機会がかなりあった。振り返ってみると日本について勉強したことはなかった。良心の呵責を感じ、アメリカで大学院を卒業してから40年が経つが、この機会に日本を勉強してみようか…と思った。あれこれと申請することだけで1年かかった。最近政治家に対し、選挙にだけ熱中して肝心の国家経営には何の準備もできていないという言葉が浴びせられているが、私はといえば、ソウルで日常生活を消化しながら、申請することにだけ集中し、合格してからの勉強に対する準備はろくにできていなかった。 引き返せない私の無謀な決心。学業をできるだけ早く終えようとするので終日学校で勉強した。かばんを整理して背負い図書館の扉を出るのはいつも午後10時を過ぎていた。 日本でスピーチと講義と人的交流もこなし、学科科目の勉強もこなして履修できることを願ったが。いざ実戦に入ると、卒業のためには二つのうちどちらかを選ばねばならず、選んだ一つで成功することも奇跡だということに気づいた。韓国でお別れ会までしてきたので、途中で放棄しないためには、やむをえず前者の大望を放棄し、20課目に集中して全ての試験と課題にパスするという後者の道を選ばねばならなかった。 勉強はストレスだったが、学生たちは親切で、教授陣にも権威的なところがなく、あまりに親切であまりに腰が低かった。韓国やアメリカの学校とはずいぶん違った。学食や購買部で顔を合わせる職員たちは学生に対して常にお辞儀をし、驚くほど謙虚に対応してくれる。彼らには日常的なことかもしれないが、私はいつも驚き、じっと眺め入ってしまった。 図書館の前には創立者である新島襄が建てた煉瓦造りのチャペルがあり、すぐその右側に 尹東柱と鄭芝溶の詩碑がある。150年間数多くの国から留学生たちがやってきた中で、韓国人の詩碑だけが、それも二つも建っていることが不思議だった。最近、尹東柱は映画にもなり、テレビなどでも彼のことを多く取り扱っているが、尹東柱の27年という短い生涯、その中で受けたすさまじい苦痛を知る者は誰もいなかった。ハングルで詩を書き、独立運動を先導したとして、大学近くの警察署に連れて行かれた後、遠く福岡の監獄に送られ、解放を目前にしながら息をひきとった。埃ひとつない美しいキャンパス。二つの詩碑の前だけは誰も手をつけようとはしないので、私は毎日詩碑をみがいては焼酎をまいた。 彼が六畳間で苦しみながら書いた詩も読んでみた。その心情を知りたかったからだ。 今が日本の帝国時代でもあるまいし、どんな栄光を得ようとしてこの狭い部屋にノートと資料をひろげ、夜を徹して勉強しなければならないのか。私は毎晩そう思った。ずっと昔、日本政府次元の母の行事で京都に行ったとき、京都が前世の故郷のように感じられた。何日かの滞在ではそうだった。長期間、それも膨大な課題と日韓での活動を同時にこなそうとすると、まわりの人々がいくら親切とはいえ、私のいるところは他人の国、異国だった。故国に置いてきた仕事は次第に絡まり始めた。遠ざかる人間関係。郷愁が押し寄せた。 シャワーをあび、すぐ横にある鴨川に沿って暗い夜をずっと歩いた。 尹東柱が師と仰いだ鄭芝溶の詩碑に刻まれている詩がまさにこの‘鴨川’だ。 異国での切なさであり哀切であり悲しさだ。 尹東柱の詩碑があることが知られると、韓国から観光客が来るようになり、入場券があるわけでもない大学を訪れてその詩碑を見ると、すぐ横の鄭芝溶の詩碑にある‘鴨川’の詩もみることになる。詩には母親が、オロンジュ(オレンジのフランス語発音)の皮を噛むことが、西瓜の匂いが、川風と愛する者が詠われ、鴨川十里の野原が詠われている。京都にわずかに留まるだけでは理解できない韓国詩人の心だ。
今も京都に行くと、出町の3階建てアパートの1階103号室、毎日開け閉めしたその扉を眺めにいく。机と床で遅くまで勉強し、文章を書き、花の位置をかえ、玄米ご飯を炊き、部屋の床いっぱいに食べ物をひろげてもてなした瞬間たち、悲しくて寂しくてお祈りをした瞬間が思い出される。体はもうそこにないが、今なおそこに留まっている生きた記憶とそのオーラに向き合い、じっと眺めいる。 たやすく書かれた詩
尹東柱
窓辺に夜の雨がささやき 六畳部屋は他人の国
詩人とは悲しい天命と知りつつも 一行の詩を書きとめてみるか
汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う 送られてきた学費封筒を受け取り 大学ノートを小脇に 老教授の講義を聴きにゆく
かえりみれば 幼友達を ひとり、ふたり、とみな失い
わたしはなにを願い ただひとり思いしずむのか?
人生は生きがたいものなのに 詩がこう たやすく書けるのは 恥ずかしいことだ
六畳部屋は他人の国 窓辺に夜の雨がささやいているが
灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり 時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、
わたしはわたしに小さな手をさしのべ 涙と慰めで握る最初の握手。
伊吹郷訳
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