今日は詩人尹東柱の忌日です。
1945年、解放(終戦のこと)を迎えるわずか何ヶ月か前の2月16日なので27才であり、待ち望んだ解放のその日を見ずして逝ってしまったことが残念でなりません。
最近私が通った京都の同志社大学では毎年この日に集会がもたれるので、来てほしいという話がありましたが行けず、13日に詩人が1938年に入学した延世大に行きました。
冷えこんだ天気、延世大の広いキャンパスのいい場所に詩碑が同志社のそれよりも高く立っており、碑石の前に菊の花一輪を供えて礼をしました。そのすぐ後ろは尹東柱が寝起きしていた寄宿舎の建物ですが、彼の記念館をつくるために内部を空にしたところで追慕式を行い、百周年記念館ホールで記念式を持ちました。
出席者による挨拶があり、詩の朗読と文学賞の授与もありました。ホン・ジョンソン教授の講演が印象的でした。
韓中日の三カ国における尹東柱の扱われ方に差があるということが特に印象的でした。日本に対する抵抗を強調する韓国と、加害者としての罪責間をもつ日本、尹東柱に対する所有権を強力に押出す中国の姿、そこには微妙な感情的、政治的要素があり、それが客観性を脅かしたり、度を越してしまう差を作り出しているとのことでした。
中国では中国の朝鮮族の文学であると主張しますが、当時朝鮮族という概念自体がまだなく、尹東柱の詩‘星を数える夜’に‘佩鏡玉という異国の少女の名前と’と書かれていることからわかるように、彼は自身を朝鮮人(韓国人)と考えて生きました。そして、日本当局が尹東柱に‘不良鮮人’というレッテルをつけたことからもわかるように、中国人だったからではなく、朝鮮人だったから逮捕されたのです。
ここで私の関心をひく部分は、中国が尹東柱を強い反日意識のある人物、日本のファシズム体制に強く立ち向かった人として叙述し、尹東柱の叙情的で内面的な詩に積極的な抵抗性を与え、社会主義国家の姿を見せていることです。しかも『尹東柱と韓国文学』を書いた大村益夫氏が1985年に詩人の墓を発見するまで、中国人は尹東柱について全く何も知りませんでした。
これに反して日本では、1950年代には尹東柱が紹介されはじめており、1984年に伊吹郷が詩集を完訳したことが、尹東柱に対する関心が出始めるきっかけとなり、さらに大衆的な人気を誇った茨木のり子が1986年に『ハングルへの旅』というエッセイ集にのせた‘尹東柱’というエッセイがその関心を一層高め、日本の教科書にも彼の詩が載るようになりました。
それは中国人たちとは全く異なる方式でした。尹東柱という‘人間の姿’を繊細かつ鋭利にとらえようとする姿勢です。伊吹郷の翻訳詩集が出たころ、大村益夫氏も尹東柱に対する大きな関心と愛情から満州まで行って彼の墓を探し出し、彼が通っていた教会と学校の雰囲気を見て、読んでいた本の種類と内容を明らかにしました。
このように、日本が尹東柱に関心を持つ方式は、韓国や中国とはたいへん異なります。多様な個人的関心により、個人と個人が東京、京都、大阪、名古屋、福岡等の各地で小規模の集まりをなし、セミナーと記念式を開いたり、詩碑を建てる仕事をしています。
ここで私の知っている現代のもうひとりの尹東柱研究者の名を挙げておきます。
作家の多胡吉郎氏です。彼はロンドンにNHK特派員としていたころ尹東柱の‘序詩’を読んで熱中し、その影響でよい職場も放棄して作家の道を志しました。10余年に渡ってNHKに尹東柱のドキュメンタリー制作を根気よく説得して作らせ、尹東柱など知らないといって常に断っていた同志社大に、1992年から‘尹東柱を愛する会’を主導してきた朴熙均氏とともに説得して詩碑を建て(1995)、尹東柱の最後の写真を発見し、詩人が日本の友人たちと立って写真をとった宇治にもうひとつの詩碑を建て(2017)、詩人の誕生百周年にはその伝記を出しもしました。
京都造形美術大学の総長も尹東柱を愛し、詩人が下宿していた家を買いとって大学に含め、その前に詩碑を建て、今年の記念日にも記念式をしました。
こうしてみると、俗な言い方をすれば「尹東柱はじつに運がよく、ひどく巡り合わせがよかった」とも言えるかもしれません。彼が愛した祖国でよりもはるかに先に日本の作家、詩人、読者が彼を発見したのもすごいことですが、それまで誰も知りえなかった、それこそ霊眼によらずしては見えない彼の詩の行間にある純潔にして純粋なその内面が、どれほど深いせいで、夭折した後にもこのような一連の出来事が起こるのだろうかと考えさせられます。
人生は短く芸術は、はたして長いものでしょうか。