ソウルにも明るい春がやってきました。
横たわって臨む窓越しに、青い空と 山茱萸、木蓮の花、
ずっと前に私が植えた桜の木にピンクのつぼみが見えます。
春になっても出歩けず、花見もできず、花が咲いたところは
感染対策のため近寄ることもできません。
Social Distance といいますが、私は腰のために2年前からそれを守っています。
去年の4月に東京と京都に行って以来、もう1年間海外での日程をこなせずにいます。
もうどこにも行けないでいるので、神様は公平だなあと思います。^^
何時間かの手術のあと、もしも目を覚ませなくなるとしたら、
私は今何をするべきかと考えました。
日本関連の本はもう二度と書かないつもりで、410ページにもなった
『왜 교토인가 (なぜ京都なのか)』ですが、
いざ出してみると、どうしても入れておくべき話が漏れていて残念に思い、
『 왜 교토인가 (なぜ京都なのか)』に出てくる名所をいくつかメモして
京都に行く人を見ると、他にもたくさんいいところがあるのにと、
それも残念に思われました。
しかし、何よりも残念なのはもう何年間もお隣の日本との関係が最悪の
状態であることで、この大騒ぎの中、すでに何が最悪かさえわからなく
なってしまった無感覚に、せめて私だけでも思いをよせ続けなければという一心で、
入院当日の朝まで、腰に手をあてながら『 왜 교토인가 2 (なぜ京都なのか2)』
を脱稿しました。
医者がこのような事情を知ったら怒るでしょうが、そうするしかありませんでした。
そんなにまでして脱稿したので、本にすることもできるでしょう。
なにせ、どんな一流出版社にまかせても、作家が意図したとおりにはならないので、
最近何年間は私が直接編集・デザインして本を出してきたくらいなのですから。
しばらくは、コロナの状況にかかわらず回復してもどこにも行けませんが、
書き残して胸につかえていたもののうち、二編ほどを味見用に^^ お目にかけようと
思います。
春には東京の千鳥ヶ淵に寄って、新幹線で京都に行ったものでした。
李承信
李承信の詩で書くカルチャーエッセイ
母の千鳥ヶ淵
東京に何度か行ったことのある人でも、タイミングが合わなかったり知らなかったりで、千鳥ヶ淵のお堀に流れ落ちるピンク色の滝を見たことがない人は多いだろう。
二十歳のころから東京には何度も行っている私も、その名を知らなかった。母である孫戸妍の伝記『風雪の歌人』を読むまでは。
著者である北出明氏は日本国際観光振興院に勤め、1993年から1998年までの5年間ソウル事務所に駐在した。帰国も間近となって母と知り合った北出氏は、韓国滞在中最も感銘を受けた人物として母を選んだ。帰国直前での邂逅をとても残念がりながらも、孫戸妍の生涯を本にしようと決心した。公職にあった方が作家になった瞬間だ。
北出氏はその後休暇を得てはソウルを訪れ、4年余りにわたって母にインタビューや取材をした。その結果が日本屈指の出版社である講談社から『風雪の歌人』として出版され、東京で開かれた出版記念会に母が出席し、マスコミでも話題になった。
母が生まれたのは国を奪われていた時代だった。母は朝鮮王朝最後の王妃である‘李方子 妃’に留学生として東京におくられ、家政学を専攻し短歌と出会った。帰国後には日本語で家政学を教えもした。1945年に解放されると、日本語で歌をつくることが後ろめたく思われもしたが、17歳で身につけたものを捨てることは容易ではなかった。南北分断、同族相争う朝鮮戦争、北朝鮮による父親の拉致、3年間の疎開生活などがそれに続いた。
そんな苦しみの時代を生きてきただけでも十分なのに、書名まで‘風雪(苦難と試練)の中を生き抜いてきた歌人’のようにしたくなかったが、そうした逆境を乗り越えて短歌の大家となったことに読者が勇気づけられるのではないかと北出氏に説得された、と母から聞いたことがある。チマチョゴリを着た写真の表紙の帯には、「彼女にとって日本語は母国語ではなかった」と書かれている。
私はこの伝記を母の死後、母のさまざまな原稿を研究することになって初めて読んだ。この伝記には数百首の短歌がおさめられていた。韓民族であれば誰もが味わった波乱万丈の生涯を短な詩に含ませて表現したものだ。短歌には自身の人生も入っているが、その人生の背景である大韓民国の現代史がすべて出てくる。
夫と義母の面倒をみながら五人の子どもたちを育てた母が短歌を書いている姿をみたことはない。
自分のことはあまり語らない母は、私には‘ただの母親’だった。電話で一番たくさん聞いた言葉は「ごはんは食べたの」だ。今となってみれば、どうしてもっと母の人生について聞いておかなかったのかと、‘孫戸妍プロジェクト’を進めながら後悔ばかりだ。あのとき目の前の仕事に忙しかった私に、母が自身の価値や短歌の背景を語っていてくれればどんなによかったろうかとも思うが、こちらに聞く姿勢がなかったから話さなかったのだ。
北出氏は小泉元首相が日韓首脳会談の演説で母の平和の短歌を詠むや、孫戸妍の二冊目の伝記を出しもした。京都を訪問して中西進先生(日本の新年号‘令和’考案者と目されている)のお宅にとどまりながら聞いたという、別れを前にして二度と会えないかもしれないと駅前で泣きわめいたという話と、小麦粉から抽出したグルテンでつくった麩料理の話が印象的だった。後年、私も中西先生と京都の麩料理の老舗‘半兵衛’を訪ねた。最近アメリカで植物性タンパク質で肉の味をだす代替肉が話題になっているが、そこでは1689年から麩をつくっている。
東京の話としては、千鳥ヶ淵の桜が忘れられないというのが心に残った。春になるとすぐにそこに向かった。千鳥ヶ淵は皇居を囲むお堀の一部だ。東京での滞在先は常にその目の前なのに、なぜ今まで知らなかったのだろう。お堀はとても大きいので歩くのもたいへんだ。
お堀の両側に古い桜の木が長く続いているのが壮観だ。東京で会うことになっていた3つのチームのメンバーと、夜のライトアップも含めて一日に三度も見に出かけた。一番の見ごろはわずか二三日。混雑は必至だが、無理なく2キロほど散歩道を歩いた。あまりの美しさのためか、皆、美しいという言葉を忘れてしまったかのように静かに歩を進めた。その眺めも眺めだが、70年前に母がみたその眺めを、娘の私が今こうして眺めていることが感激を深くした。
三四時間は待たねばならないボートはあきらめるしかないが、ピンク色の滝が水面に落ちるのを背景に魯をこぐシーンは映画よりも強烈だった。
まずは歌で表現する母は、その瞬間何を思い、圧縮されたその思いをどんな歌にしようとしただろうか。
つらつらと考えてみる、東京は千鳥ヶ淵の春の散歩だ。
詩で先に表現した母 その瞬間どんな詩がひらめいただろう
千鳥ヶ淵 千羽の鳥の沼 風雪を乗り越えて花は咲く
ライトアップされた千鳥ケ淵 - 東京 2017 3
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