2013 5 2
花 園 もう、どの桜も散ってしまった。春が来るたびに幼い息子と地面に舞い落ちた薄紅色の桜の花びらを両手で拾い集めたワシントン、ベセスダの我が町の桜のトンネルもぜんぶ散ってしまったことだろう。 懐かしき我が第二の故郷だけれど、花見に行くにはあまりに遠い。もっとも、今私の住む都市でちゃんとした花見をすることも容易なことではない。幼い頃春になれば祖母と母に連れ添い昌慶 苑の花見に出かけたものだが、その花ももう何年も見ていない。 家のすぐ前の景福宮では、私がアメリカに留学に行く何日か前に母に連れてこられ、慶會楼の桜を背景に写真を撮った。宝石のような娘をおくる名残惜しさを詩にして母が写真の後ろに書きとめた記憶があるのに、今年の春もその桜を見逃してしまった。 それでも、延禧洞の桜の園は見逃すまいと心がけているほうだ。 12年前、母がセンブランス病院への出入りを繰り返していた頃、とても詩的とはいえない患者服にセーターをはおって延世大学の濃いピンクのツツジを見た。そこから少し離れた延禧洞の桜の園にも連れて行きよく一緒に歩いた。ツツジの花の場面は写真におさめたが、歩きながら数え切れない桜の花びらが母の前に滝のように舞い落ちるその詩的な場面を写真におさめることはできなかった。花の中を夢のように歩く美しい瞬間を邪魔されたくなかったのだろうか。その場面は母の詩として残されている。 花あらし病む身取り卷き吹雪かえば哀れ哀れと悲鳴をあげる 当時私は延禧洞に住んでいたが、ある日近所の西大門区庁の後ろに太い桜の木が群生し花を咲かせているのを発見し、何か思いがけない拾い物をした気になったものだった。春が来るたびに母にその大作品を見せたものだが、ひょっとするとそれが母のこの地における最期の花の景色だったかもしれない。 その堂々とした木々をすべて切り倒し、高層団地を建てようとする計画があったが住民たちの反対で頓挫し、それからかなり経った今では、区庁がさらにたくさんの木を植え、池あり噴水ありの見事な桜の園となった。 毎年桜の便りが聞こえてくると、私はその花園を母と歩いたことが映画のように思い浮かぶ。映画だったのか、夢だったのか、現だったのかとしばし考える。 先週も訪れて、まだ花が咲いているのを確認し、崔書勉先生をお連れした。 崔先生は近現代史の専門家であり、獨島(日本名:竹島)が韓国の領土であるという数多くの資料を持つ日韓関係の権威者だ。何日か前にも東亜日報の全面インタビューで、日本の安倍総理が外祖父の岸信介元総理、大叔父の佐藤栄作元総理、そして父安倍晋太郎元外務大臣のように、たとえ誤ったとしてもそれを悔い改めることのできる精神の遺産を引き継がなければならないと釘を刺し、韓国人の胸の内を代弁した方でもある。 最近、東京で私の出版記念会をしたが、その意味を理解するだけの方々にお集まりいただくのは容易なことではなかった。前日まで悩んだすえ先生のことを思い出してお願いすると、内容を詳しく聞くこともなく、私の目の前で一気に十人ほどに電話して行動力を発揮された。先生のために私の出版会に行かされることになった日本の著名人たちが感動で目頭を熱くして起立拍手までし、来なければ大損するところだったと手紙や連絡をいただくことになろうとは。先生の顔に泥を塗ることにならずによかった。 しかし、私にはそれよりも先生が母と一度会っていることのほうが有難かった。 母は生涯この国に住みながらも、出会った人はほんとうにわずかだからだ。 花見をするひまもなく生涯勉学に勤しんできた先生が、まるで連れてきた私が作った作品でもあるかのように自ずから咲いた花の群れに感激し、思いに沈まれた。私が母のことを思い出したように、生まれて一月もせずに亡くなったという父親のことを思い出しておられたのかもしれない。 美しいものに接して亡き父母のことを思い浮かべない者があろうか。 あのときは知らなかった 母なしにこの花の道を歩くことになろうとは しかし 私にだけ見えない ともに歩く母の 和やかな微笑み 崔書勉先生とジャン・セジョン外交部担当中国専門記者 - 延禧洞 桜の園 - 2013 4 25
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