2012 11 19
秘 苑
雲泥洞の日本文化院での仕事を終えて外に出ると、空は青く澄み渡り、秋真っ盛りだ。まわりを見回すと、道の向こうに秘苑の敦化門が目に入った。と、思ったときには足がすでに道を渡り始めていた。
実にどれぐらいぶりだろうか。日本軍が庭園の意味で秘苑と格下げしたものを改めて昌徳宮と名乗りなおしたが、私には幼くして聞きなれた秘苑の方が情がこもる。
家が近いこともあっていつも通り過ぎるだけだが、ソウルに住みながら昌徳宮や昌慶宮を訪ねたことのある人はどれだけいるだろうか。
威厳さをたたえて立つ敦化門を入ると、広大な庭がひろがり、きれいに染まった紅葉と秋の風光が、そこに立ち並んだ宮廷と停を風雅な趣きのあるものにしている。
季節により感じ方は異なるだろうが、遥か昔の建築と景観との自然な調和と、その中に感じられる穏やかさと美しさは同じものだ。
大学生のとき、友だちとなんとなしに秘苑に立ち寄った。静かな後苑の森の中から四人の西洋人が近づいてきた。軽い気持ちで“Where are you from?”と尋ねると、黒縁メガネの男性が“I‘m from London”。その後二言三言を交わして別れた。
英国式の発音が耳に残ったその翌日、梨花女子大の大講堂での講演の場にクリフ・リチャードが登場するのを見て、彼があのときの黒縁メガネの男性だったことに気づいた。秘苑と当時世間をにぎやかせていたクリフ・リチャードとの共演は、今のご時世であれば携帯電話で写真におさめるところだろうが、あの時の場面は私の記憶の中だけにある
。
あたりを見回すと、派手な装いも丹青の一つもない素朴で美しい建物一棟が目についた。女性の空間特有の愛らしい楽善齋、憲宗が書斎と居間として使い、1963年に帰国したイ・パンジャ李方子女史が1989年まで生活した場所だ。
パンジャ方子女史は大韓民国最後の皇太子、英親王の妃だ。進明女高を卒業した母、孫戸妍歌人を1941年に東京に留学させてくださった方でもある。弼雲洞のわが家にも来られたこともあり、楽善齋を母とともに訪れた際には直接お作りになった七宝の工芸を見せてくださりもした。
日本の最高名門家出身で、天皇の閨秀としてお妃候補となりながら、跡継ぎを産むことができないという健康検診の判定により、朝鮮総督府により朝鮮王室との婚姻がなされたが、後に男の子を産んだ。
ずっと後になって聞いた日本名、まさこ方子女史の人生の断面だが、今なおその気品のある姿と態度は私に深い印象を残している。
日も暮れかかる中、市内の真っ只中ながら都市とはまったくかけ離れた‘秘密の庭園’にまぎれ込み、その昔母とともに座ったその部屋を、いまや私だけの知るその美しく気品のある光景を、懐かしさにあふれた目で見入るある冬の午後だ。
母の手にひかれ
方子女子にお会いした
いまや
観光客と私だけがのぞき込む
遠き日の記憶も新たな
がらあんとした
秘苑の楽善齋
2012 11 17 午後5時 詩人の携帯電話で撮影~