夕方の光化門 2014 10 29
再び歩く光化門
家から用事で外に出ようとすれば、一日に何度か景福宮前の光化門と光化門交差点を通る。光化門の扁額を見て、三清洞の方に足をのばしてごはんを食べることにする。歩くといろいろな思いが浮かぶ。
いつしかなくなってしまったが、かつてここに中央庁のどっしりとした石の建物があった。平壤から下ってきた父は中央庁商工部燃料課長だった二十九歳のとき、ここのホールで母と結婚式を挙げた。なぜそこを結婚式場として貸してくれたかについて、当時記事にもなったという話を聞きもしたが、折あるごとに耳にした、新郎のあまりの美男子ぶりに祝いの客たちが驚いたという、母の友人たちの言葉を思い浮かべながら、私が見ることのできなかったその結婚式を想像し、両親の若き青春時代を偲んでみる。
日帝時代に建てられたからという理由で中央庁がある日姿を消してしまう以前、私はアメリカや日本の友人たちにそこを案内したものだが、深い印象を受けたあるアメリカの友人は、その後取り壊されたのを見てとても残念がった。歴史の一ページとして日本の観光客たちにもぜひ訪れてほしい建物であり、観光次元からもどこかに移しておくべきだったのにと惜しんだ。
光化門の扁額を後ろにして立ち、世宗路と呼ばれる光化門一帯をしげしげと眺めてみる。 幼い頃から私が過ごしてきた故郷の街だ。この前の秋夕(お盆)のときにも帰る田舎のある人々を羨み、行くあてがないことを嘆いたが、長いアメリカ生活で思い焦がれたこの故郷を思い、ここに身を落ち着けることができたことに感謝する。
昔、孝子洞まで乗ったことのある電車路線はなくなり、好きだった古い銀杏の街路樹は目にありありとしているが、今やイベントやデモ集会を開く広場になってしまった。デモがある日にタクシーに乗ると、渋滞が続きいらいらさせられる。
世紀の瞬間もあった。 去る八月、フランシスコ教皇のミサに私たち全てがどれほど幸福で胸一杯だったことか。もうずいぶん経ったように感じられるが、わずか三か月前のことだ。その瞬間が過ぎてしまえば再び日常の煩悶に戻ることを予測しなかったわけではないが、やはりその通りになった。
その下の光化門交差点には、セウォル号関係者たちのテントが立ち並んでいる。彼らが大きな悲しみに沈んでから六か月が経つが、それもずいぶん以前の出来事のようだ。どうすれば彼らの心が少しでも安らぎ落ち着くだろうか。どうすればべたべたと貼られたスローガンが消え、通りを行き来する市民の心が落ち着くだろうか。特別法と彼らの要求をすべて受け入れれば、心は平穏になるのだろうか。
タクシーでその横を通ると、運転手は必ず「これまで国民がどれだけ哀悼を捧げてきたと思っているのか。なのにあんなにまでして…」と言う。同族として当然深く考えるべきことだが、残念でしかたない。
1968年に建てられ、今なおそびえ立っている李舜臣将軍の銅像は、いっとき国際劇場の看板を見下ろしていると笑い話の種にされたが、今では途方もなく増えた自動車のそばに張りめぐらされた天幕の群れを見ないわけにはいかなくなってしまった。
毎日見てきた光化門一帯にも、こうして見ると凄まじい変化があった。
いつも歩く光化門だが、ニューヨークのマンハッタン通りやパリのシャンゼリゼ、ロンドンのピカデリー広場、週末の東京銀座の歩行者天国では新聞が読めたことを思えば、我らが大通りである光化門は車輌中心で、歩行者中心ではない。しかし、あの暑い夏の日、静かで温和な教皇の微笑とその祝福をたっぷりと受けた自負心で、そして、つねに頼りがちだったけれど、これからは独立する心で、腰をぐっとのばし歩いてみる。
この地に私が生きてきた瞬間瞬間に、変化してきた社会の歴史と地の歴史を思い、今後さらに変化していくであろう日々のことを考えながら、我が故郷、光化門を再び歩く。
両親が青き時を生きていたあのとき あそこで結婚式を挙げたのはほんとうだろうか
十二年間 徳壽校 女中高に毎日通い あの世宗会館の前でバスに乗り 大学に通ったのはほんとうだろうか
ほんとうにあそこに太い銀杏の木々が立ち並んでいたのだろうか
教皇が私が今立っているこの場所で 私たちとこの国に平和が訪れることを 世界に戦争がなくなることを祈ったのはほんとうだろうか
あの交差点 ああして天幕をはりめぐらし 断食と籠城で 疲れ果てている者たちの考えは正しいのだろうか
この全てがひとつの夢ではなかったろうか
振り返り これからを見つめる この瞬間さえ 目覚めれば もしや ひとつの夢になってしまうのではないか
再び歩く光化門
今日の光化門交差点 デモ隊のテントと教保ビル - 2014 10 21
景福宮前の光化門 - 2014 10 28 通りすがりのミュンヘンから来たドイツ人が撮影
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