2013 9 13
キチャ岩から
外国である町や都市の全景を見まわし、美しいなあ、きれいだなあという思い出があまりないだけに、単細胞的ではあるが、わが国わが故郷を見まわし見下ろすと常に万感の思いがこもる。
仁王山に登った。 長く住み暮らした弼雲洞の家のお気に入りだった裏庭が道路拡張のため切り取られてしまい、今は培花女子高校、培花女子大の運動場がわが家の裏庭のようになっているが、仁王山はすでにそこからはじまっている。 毛細血管のように狭い路地があちこちと迷路のようにいりくみ、朝鮮時代を彷彿とさせるこの景福宮の西村は、どこをどうまわっても西のはじに仁王山がどかりと腰をおろしていて頼もしい。どの道を選んでも結局は仁王山に行きつくのだ。
私は家のすぐ横の路地から古びた培花女子高の中へ入り、急な坂をのぼって時々学生たちが集まって野外授業をしている丘の上の八角亭を通って山に行くことにした。社稷公園を横切ったり、公園の上の黃鶴亭の弓場を通ったり、北岳スカイウェイ側から登ることもあるが、あの毋岳峴から玉仁洞、清雲洞のおわりまで長くのびた仁王山に登るには他にもいくつかの道がある。
入口に立っただけでもすでに空気の味がちがうが、普通、中腹近くの泉水飲み場で水を飲みつつ、‘わが故郷’、景福宮、光化門、市庁前、南山等、市内中心街と山の頂上と空を眺めて降りてくるのが私の散策コースの一つだ。
山登りの仲間たちとは毎週北漢山に登るが、今回は久しぶりに仁王山に登った。
新しく建てられた付岩洞の尹東柱文学館から城郭をはさんで登ると、思ったより頂上が近かった。数十年間この山に登り続けているが、これは初めてのコースで、張禧嬪が宮廷を追われながら王の目にとまるようにと自身の赤いチマ(韓国の女性民族衣装)を振りかざしたという大きなチマ岩を撮り、その横にあるもう一つの岩であるキチャ岩(キチャ=汽車の意)に登る。
幼くして登った仁王山は岩だらけの山だったのに、アメリカから帰ってみると、不思議なことにその硬い岩のすき間すき間に木と草が生えだしていることに驚かされた。今もなお青ずむことをやめていない。
なぜキチャ岩と呼ばれるようになったのかは岩の真近ではわからないが、おそらく遠くから眺めてみれば汽車の形をしているのかもしれない。
何度も見慣れた景色なのでそれほど期待せずに登って眺め渡すと、角度が少し異なるだけなのに、なんとしたことか、これは本当にもう一つの驚きだ。
どんなに自然がいいといっても100%の自然は長くもたない。あまりに近くで見る大都市も人の暮らしの汚れが赤裸々としてすぐに嫌気がさす。
330メートルという高くもなく低くもない適当な高さから見える、左側の北漢山の大きな連なり、その下には舊基洞や平倉洞が寄り集まって人の世の営みが繰り広げられており、足元には青瓦臺、景福宮、右側には高層ビルが立ち並んでいる。そのあらゆる生と人間が作り出したメガ都市を北漢山と仁王山の二つの山裾が青い青い空の下に広々と抱きかかえている光景は、これまで国内で眺めてきた山からの景色のうち当然、魅力1位だ。
私はアメリカから帰ってきてからは、外国の客にはわが家と仁王山の中腹を案内するようにしている。ソウル滞在の何日間かに彼らが訪ねるところといえば、仁寺洞、明洞、免税店、焼肉屋、サウナの垢すり程度だ。
ソウルは世界でも珍しい山に囲まれた都市だが、彼らが訪ねるところからは山が見えない。私が案内して見せる仁王山の中腹の岩から眺める市内のパノラマ全景と、都市の真ん中に位置する高々とした山に彼らは韓国を新たに発見し、もう一度詩人とともにする散策コースを歩きたいという。
キチャ岩から見下ろした展望には本当に言葉もなく、下りながら改めて見直した中間の展望とはあまりに差があるので、途中行き違う人々にキチャ岩まではぜひ登ってみるようにと宣伝した。
富士山、京都の高野山、ニューヨーク州のアパラチア山、アラスカのマッキンリー、アルプス、モンブラン、ユングフラウ、シナイ山、スイスの名も知れぬ山々からの景色を眺めてみたが、わが故郷、このメトロポリタンシティ中心のキチャ岩から眺める景色と、私たちが築いた歴史との調和こそは実に壮観だ。
眼下に広がるたくさんの町々と、路地ごとに秘められた屈折した歴史私の記憶で多少の偏見があるかもしれないとしても。
広い世界を巡りに巡り 今こうして帰ってきた故郷 山に登り見下ろす 五百年の歴史と 我が幼き日の物語
万感が押し寄せる 時間と空間のパノラマ その向こうの空を仰ぎ
今日は秋夕
山裾に広がる西村と光化門、遠くに見えるのは南山
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