詩人を紹介する東北大学工学部の福原教授 2014 3 21
気仙沼への道
私は忘れたこともあるのに、東日本の被災地を再訪すると、当地の人々は忘れずにいてくれました。流されてしまった村はそのままで、工事の進行速度も思ったより遅いようであり、数十万人が依然として仮住宅に住んでいました。
空からは雪が降り散っているのに、日差しはことのほか燦々とし、数えきれない人命を奪った波は静まりかえって輝いていました。
昨年、KBS(韓国の国営放送)チームとともに行った私の詩の朗読会に残していった本の一冊が、近現代短歌の父と呼ばれる落合直文歌人の生家文学館の館長の手に渡り、そこを訪れた短歌をつくる東北大学工学部教授に李承信詩人をぜひ探し出してほしいと頼み、その方がついに私を探し当てて、その文学館で3・11大震災3周忌に私の詩の朗読会を行うことになりました。
仙台空港に教授夫婦がわざわざ迎えに出てきて、ご自宅に招いてくださった。いつもならホテル泊りだが、日本の家庭にお世話になるのは実に40年ぶりのこと。
3月11日早朝、折からの諸行事のため、静かな東北地方の道も混み、普通なら二時間半あれば着く気仙沼までの道のりは遠いものでした。
人命被害がさらに大きかったのは石巻市だが、気仙沼が世界的に有名になったのは、津波のためオイルタンクに火がつき、都市全体が火の海と化した姿が連日ニュースに流され、世界の人々の涙を誘ったためです。
5分遅れたが、既に皆私を待っていました。朗読会に花を添えようと急遽、東京の能楽師を招請して30分間の公演を行いました。
そして、‘李承信の詩の朗読会’。当地のマスコミに歌人である母の紹介をし、母の映像と昨年KBSドキュメンタリーとして放映された気仙沼での詩の朗読会の様子を見せてから、スピーチと朗読をしました。
日本でスピーチや講演をする際、よせはいいのにできもしない日本語でするのですが、私は日本の学校で勉強したわけでもないので難しくて仕方ありません。しかし、心だけでも伝えようと努力しています。
坂の下に位置するその由緒ある文学館の私が立っている右側、長く伸びた全面ガラス張りの戸越しに、あの津波の海が見えますが、まるで何事もなかったかのようにどこまでも平和で美しいばかりです。
私の朗読に続き、文学館の十八代目となる鮎貝館長に、その場で選んだ母の短歌を何首か詠んでいただきました。
3年前津波が襲ってきた2時46分、サイレンの音が村に響き渡り、窓が開けられると、皆が一斉に海に向かって敬虔に黙祷を捧げました。粛然とした時間でした。あの日突然いなくなってしまった者たちは、皆この場にいる人々の愛する家族であり同郷の友でした。
来る前はとても迷いました。私としてもこれまでできることはやり、日本ではいつも歓迎されましたが、韓国では一部にせよ、どうして日本人のために力を貸し慰労までするのかと、日本人は嫌韓になったのだという声も聞きました。
でも、ここにいる人々の表情と心に接してみると、遠くから来た甲斐があったと感じました。韓国の心をはっきりと受け止めてくれました。
困難なときほど私たちがより広い心をもって隣国に接することこそが、先進国へと進む正しい道であると思わせてくれました。
暴風雨激しいほどに土の下深く静かに根を下ろす君
生き延びし命の意味を明かすべしあの日より後いや増す
この廃墟にもう花などはと思いしが君心あり花は咲くなり
‘李承信の詩の朗読会’、落合直文歌人の生家文学館、宮城県気仙沼 - 2014 3 11
母、孫戸妍の短歌を詠む鮎貝文学館館長
館長の要請で詩の一首を白い色紙に日本語で書く
全部の襖を開け放って開かれた 3・11詩の朗読会
会の終了後スタッフ一同と記念撮影。手を高く上げているのは能楽公演をした二人の能役者 - 2014 3 11