2015 1 29
大いなる岩の顔
生まれ育った我が家の真後ろには仁王山が長々と横たわっている。ソウルの真ん中やや西よりだ。
山並みの一番左側に大きな岩が突き出ており、見ようによっては人の横顔のようにも見えるが、ある瞬間ある位置からはまさにそのものだ。社稷公園をはさんで北岳スカイウェイに入り、入口から左側に進むと現れる、しばらく前に新しく積まれた石の城壁にそって登る道がそうした場所の一つだ。
幼いころからその岩を眺め、私はいつしかそれを‘大いなる岩の顔’と考えるようになった。
梨花女子中学の教科書には、アルフォンス・ドーデの‘最後の授業’とともにナサニエル・ホーソンの短編‘大いなる岩の顔’が載っていた。二作品ともその構成と文章、語彙、文学性とメッセージが卓越している。映像もなかった時代に、自ずとそのイメージが目の前で繰り広げられ、そのイメージは幼い心にそのまま刻印された。
国語の先生がときどき誰かに朗読させようと「誰か読みたい人」というと、級友たちは決まって「イスンシン!!」と言い、その度前に出て本を読んだせいもあって、より鮮明に印象に残っているのかもしれない。
家でも外でも仁王山が見えるのが普通であり、その人の顔をした大きな岩を見ると、幼いころに読んだそれらの作品が思い出される。
アメリカの小さな田舎町は古くから言い伝えられた伝説があった。山の上に聳える人の顔をした岩と同じ顔の人物がこの町に生まれ、大いなる人となり故郷に錦の旗を飾って帰ってくるというのだ。ある幼い少年もその話を聞き、いったいそれは誰だろうかと期待し、やがて文学青年となってからも岩を仰ぎつつ文章を書きながら、その人物の登場を待ち続ける。
あるとき、戦争に勝利した将軍が故郷に戻ってきて、皆がこの人かと期待したが当てが外れ、大功をたてた政治家や大都市で財を成した巨富の企業家が帰郷したがこれも違い、学者や科学者、その他成功をおさめた人物たちが故郷に戻ってきたが、一様に違っていたので失望を濃くした。
たくさんの歳月が流れ青年も老人となった。ところが、ある日町の人々は、これまで故郷の町を愛し、よい作品を書き続けてきたかつての文学青年を指さし、この人こそが私たちが、この町が長い間待ち続けてきた、まさにその人物であると言い交した。
初めて読んだときには、その文学青年とともに私も大いなる人は誰だろうかと気にかかり、終盤部で当の青年こそがまさにその主人公であったことに震えるように感激した。
人物というものは、何か大いなる出生によったり、天から落ちてくるものではなく、小さく平凡な者が誠実に真剣に切実な心で育ちゆく過程で、ついには自らその待ち続けてきた人物になってゆくものであるという悟り。あらゆることは私たち次第であり、気持ちの持ち方次第で大いなる岩の顔になれるということ。
偉大な作家の文学作品とは、私たちの人生にこんなにも大きな影響を与える。作品を通してそれを自ら悟り、満ち足り、いつも私を見つめている仁王山の名もないあの岩に名前を付けては、夢のように仰ぎ見た。
アメリカで知り合った友人たちがソウルに来ると、そうした心を分かち合えるだけの人には、幼い日のその話を聞かせ、その岩を見せもした。ソウル滞在中、その話が一番心に残ったという友人もいる。
韓国の友人たちにもときどき家の周りを案内してはこの話をするが、自分の国のありふれた光景だからか、心に留めようとはしないようだ。西村に住む人々でさえ、ほらあれを見てと言いながら空に聳える大いなる岩の顔をいくら指さしてみても、思い入れがないせいか、珍しくもなく、興味もないといった表情をすることがある。
長い海外での生活で懐かしんだあの顔は、帰ってきたとき黙々と迎え入れてくれた。たくさんのことが変わってしまったにもかかわらず、依然として情に満ちたその顔がそこにあることが不思議で、しかも、これからもそこに常にあり続けてくれることを思うと、心が震え、ありがたく、泣きそうになる。
私たちにいま必要なものは、より大きな成功と安らぎというよりは、幼い日に胸に刻んだ夢を失うことなく、大切に守り育てていくことなのかもしれない。
行き帰りの道すがらその顔を眺めると、いつもほほえましさに顔がほころぶ。
初めて目を交わし合った瞬間から 変わりなくそこに 立っているおまえ
おまえを見ていても わたしは 今なお おまえが懐かしい
い頃から見てきた仁王山の親しい大いなる岩の顔 - 2015 1 19
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