中央日報 2022 11 3 詩人の李承信さんが散文集 『なぜ京都なのか』 日本語版を携えて、読者たちに会うために日本を訪れた。
(京都の同志社大学の校庭にある詩人尹東柱の詩碑の前で) [写真提供 李承信] 京都で花開いた百済文化… 消えてしまった韓国のものが京都にあります
短歌歌人であった孫戸妍(1923~2003)の娘として広く知られる詩人の李承信さんが、最近自身のエッセイ 『なぜ京都なのか』(1・2巻、詩家)の日本語版(1・2巻)を出版した。現在読者サイン会のために京都に滞在中だ。 李承信さんの母である孫戸妍先生は、三十一文字からなる日本の伝統詩歌である短歌を日本人よりもうまく詠む歌人だった。日本統治時代に東京に留学して身につけた短歌を解放(終戦)後にも放棄することなく、六十余年間に二千首もの作品をものにした。短歌集『戸妍歌集』『無窮花』シリーズ等を残し、1997年には青森県に詩碑がたてられ、日韓首脳会談では代表作の平和をうたった短歌が取りあげられもした。日韓友好と善隣の象徴的存在だと言える。 李さんは、「母は韓国の祖先たちの詩が日本に渡って短歌になったということを知ってからは‘千年以上も前に消えてしまった韓国の詩を今に繋ぐ’という使命感で短歌を守りぬいた」と紹介した。 やはり短歌をつくる娘であり詩人の李承信さんも母親に劣らない。2018年と2021年にそれぞれ出版した『なぜ京都なのか』1・2巻は、母である孫戸妍先生の足跡を継ぐ本でもある。詩人尹東柱が学んだ京都の同志社大学で2015~2016年にかけて晩学に勤しんだ体験をもとに、古都京都のそこかしこに残る韓国人の痕跡、日韓関係の重要性、同志社大学の話、詩人尹東柱や鄭芝溶の話、暮しの拠点にした出町でのこと、隠しておきたい京都の名所などを、おもわず食指が動くように興味深く紹介している。 “ああ、いっそ夢だったら / ああ、いっそ映画だったら / 惨憺たる大震災と津波” 李さんは東日本大震災直後の2011年3月末、惨憺たる悲しみにくれる日本人を慰めるための短歌を詠み、日本の朝日新聞と中央SUNDAY(3月27日付 1面)に同時掲載されもした。 現在京都でサイン会中の李さんは、電話インタビューで「韓国詩人の目に映った日本の姿を日本の読者たちが見て、韓国をもっと好きになってほしいという気持ちから『なぜ京都なのか』1・2巻の日本語版を出すことになった」と明らかにした。「その過程は楽なことではなかったが、韓国と最も近い国である日本ともっとよい関係になることを願う気持ちが強かった」と語った。 李さんは自身と京都、韓国文化と京都との縁を強調した。2011年日本に名前が知られるようになると、講演やスピーチのためよく日本に行くようになったが、肝心の日本についてはまともに勉強したことがないことに気づき、ただ韓国から近いという理由だけで京都を留学先に選んだが、結果的にそれが最善の選択となったわけだ。 李さんは、「百済の滅亡後、その王族や貴族、当時の知識人や芸術家たちが京都に移住して花開いた文化が千年以上の伝統となって定着し、その命脈が受け継がれてきました。韓国からは消えてしまったものが京都にはあり、京都が今日世界最高の観光地となった土台となったのです。私たちから始まったのです。そのようなはかり知れないDNAをもった私たちなので、自信と自負心をもって未来の希望を握りしめ、前進しなければならないと思います」とし、次のように言葉を続けた。 「母は日本統治時代にひどい差別を受け、痛みと傷を負わされながらも、ある瞬間、過去を抱擁し受け入れようと固く心に決めたようです。たくさんの日本人が韓国を好きになって許しを求め、ひざまずいたりしているだけに、これ以上政府や政治家たちに両国関係の改善を任せるのではなく、私たちが互いに交流して勉強することで、より良い関係を築いていくことを願います」 「母は韓国の祖先たちの詩が日本に渡って短歌になったことを知ってからは‘千年以上も前に消えてしまった韓国の詩を今に繋ぐ’という使命感で短歌を守りぬいた匠の人でした。母から私まで百年間代を継いで詩を書いてきたように、日韓両国が葛藤のない、よりよい未来に進んでいくことを願ってやみません」
キム・ジョンヨン記者 kim.jeongyeon@joongang.co.kr
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