BIFF 2014 釜山国際映画祭 開幕式 2014 10 13
映画祭
釜山国際映画祭を訪れた。 映画と直接的な関連があるわけでもないのに、招待されたのは意外だった。
もっとも、幼いころに受けた影響は些細なものでも、大きくなってその分野に進むことになるきっかけになることがよくあることを思えば、今頃私は映画分野に深くかかわっていなければならないはずだ。
まだ私が幼い頃、体の弱い母に続けて弟妹が生まれ、外祖母が私の世話をしていた。まだ子どものなかった母方の叔父夫婦とともに住んでいた祖母は私につきっきりだった。叔父をお父さんと呼び、叔母をお母さんと呼びもした。
德壽国民学校(小学校)から西大門を過ぎ忠正路の祖母の家に歩いて帰る道の途中、ちょうど今の文化日報があるあたりに東洋劇場があった。劇場前の警備のおじさんが文化公報部に勤める叔父の知り合いだったので、通り過ぎる私を手招きしては中に入れてくれた。そのようにして幼い私は、薔薇花紅蓮伝、馬夫など数多くの映画を観た。
それが映画と私の最初の縁だ。VIP入口のレッドカーペットを踏み歩きながら、忘れていたそのときの記憶がよみがえった。
あの頃何が面白いのかも分らずに観て、やがて選んで観るようになり、今なお観つづけている映画とは私にとって何だろう。私たちは常に自身の姿をたずね求める。私にとって映画とは私の姿を探し求めることだ。映画の中の多様な物語の内面で、私の物語、私の話に出会うと深く共感し、泣き笑って感動し、えもいわれないカタルシスを感じる。
開幕式は天幕屋根のある野外劇場にて、夜空に上がる花火で華麗に始まり、私が座ったすぐ横のレッドカーペットで国内外の有名俳優と監督たちがウォーキングした。
ファンたちは大きな歓声と拍手を浴びせて足をばたつかせているが、私が知っている名前はキム・ジミ、アン・ソンギ、ナムグン・ウォン、ムン・ソングン、キム・ヒエ、オム・ジョンファ、ジョン・ウソン程度だった。フランス等ヨーロッパと日本、中国、アメリカ、カナダの俳優と監督たちの姿も見えるが、韓国に嫁いだ中国の有名俳優タン・ウェイが目につく。
日本の女性歌手が、映像を背景に沖縄風の歌を哀憐を感じさせながらもスケール大きく歌い、ドイツの女性監督に今年の賞が与えられた。中国の‘軍中楽園’という映画が開幕作品に選ばれ、主演俳優たちと監督が挨拶し、一般の映画よりも遥かに大きいスクリーンで上映された。
翌日からは俳優と監督の映画紹介トークが毎日海雲臺の海辺で開かれ、313編の映画が十日間上映される。イム・クォンテク監督の102作目の作品‘ファジャン’とタン・ウェイの‘黄金時代’、そしてチャン・イーモウ監督の‘5日の出迎え’等が話題作だ。
もう19回目を数えるこの映画祭は、数万枚のパンフもすぐに売り切れ、釜山市と文化観光部の巨額の予算支援もあって、釜山を映画都市としてアジアと海外に確実に知らしめる映画祭となった。
ヨーロッパと海外に根気強くアピールし、数多い世界映画祭の中で無名だった釜山映画祭をこれほどまでにグレードアップさせたことには、当然キム・ドンホ名誉委員長の功が大きい。最近は自身も映画監督となり、政府傘下の文化隆盛委員会の委員長として、独身の大統領と一緒に‘鳴梁’を鑑賞しもした。
能力を備えた彼は極めて謙虚な方だ。常に飛行機ではエコノミー席を利用し、地下鉄に乗る。報道局長、芸術局長、国立美術館長を務めた私の叔父ソン・ソクジュを文化公報部時代に補佐し、私の幼い頃には忠正路の家でお会いした縁もある。
映画の力は強い。さまざまな芸術が一体となった総合芸術でもあるが、一遍のよい映画はよい文学作品のように私たちの心に長く刻印される。幼くして観た、風とともに去りぬ、誰がために鐘は鳴る、ベンハー、心の旅路、四姉妹などのことを思うと、深く刻印されたその影響はどのような教科書にも劣らない。
外国旅行をするようになる前に映画を通して他の国々の文化を見て学び、映画によって人生と愛と人の心を覗き込んでいたことに今さらながら気づく。映画の存在理由、その意味を考えてみる。
釜山の初秋は映画祭で熱く、開幕式でも海辺でも何人かに「俳優さんですか」と声をかけられた。映画というテーマのおかげで一度も会ったことのない人とも全くの他人とは言えない何日かを過ごした。
中国俳優タン・ウェイと‘黄金時代’の女監督 - 2014 10 2
レッドカーペットの韓国俳優、ジョン・ウソン
開幕作品に選ばれた中国映画‘軍中楽園(Paradise in Service)’軍部隊横の私娼家の話
‘軍中楽園’の試写会前、舞台上の出演した中国人俳優と挨拶する監督
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2014 釜山国際映画祭開幕式 - 2014 10 2
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