日本の千年の都であった京都にある歴代天皇の邸宅である御所は、私がいつも泊まるホテルのすぐ前にある。
何年か前京都を訪れたが、行く先々で既に桜は散ってしまっていた。偶然道を渡って散歩のつもりで御所に入り、ずっと歩いていくと一番端の方に十何本かまぶしく艶やかなピンク色が見えた。20余メートルの高さから地にふれるほどにしだれ落ちる枝ごとに結ばれた花の一つ一つがそよ風に揺れるさまは、たんなる木ではなく生きてうごめく生命そのものとして迫ってきて、驚かされた。
他の桜よりも遅咲きの御所の桜は、他がみな散ってしまっても見ることができるのだった。なかでも特に目を引く燦爛とした桜を楽しみ、立ち去ろうとして名残惜しくて振り返ると、花の影に隠れていた木の幹が見えた。その幹はあちこち裂けて傷だらけで、私はこの幹が自身の全てを捧げて華やかに咲かせた花を高く支えているのだということに、今さらながら気付かされた。
ひと気のない真冬に京都に寄るついでに、わざわざこの桜の木に会いにいったこともある。ピンク色の絶えた桜の木はどれも見分けがつなかいほど侘しく見え、あたりをうろうろと探し回ると、何もない白みがかった体のあちこちに裂けた傷跡を見せるあの木がそこに立っていた。この木が去年の春に見たピンク色の吹雪のあの木だろうかと目を疑った。この話は昨年の冬エッセイにも書いた。
そしてまた春。
裸の体からは想像もできない、彼だけの作品が今年もまた大地に繰り広げられた。会えて嬉しいとでもいうように、私に手招きするように揺れて見せるので、私も晴れやかに笑ってみせた。
木は高く、枝も横に広々とのびて、とても写真一枚にその姿をおさめることはできないので、さまざまな角度から写真をとっていると、これまで見えていなかった新しいものを発見した。
目の前で咲き乱れる花の左側の隅に立つと、突然大きな一抱えもあるピンク色のハートが私の目に飛び込んできたのだ。いままで気づかなかったのだろうか、それとも毎年姿を変えて咲くのだろうかと驚く間もなく、私の耳に「サランサランサラン」と風のそよぐ音が微かに聞こえてきた(韓国語で風のそよぐ音はサルラン、それがサラン=愛と聞こえたの意)。キム・ドンギル先生がかつて獄中生活にあったとき、毎日聞こえる鳥の鳴き声がいつしか「サランサラン」と聞こえるようになったとおっしゃっていたことを思い出す。
たくさんの人々がその前で写真を撮っているが、皆このハートに気づかないようなので、1メートルくらい離れてみれば大きなハートに見えることを教えてあげると、「わあ、ほんとだ」と言って明るく微笑んでくれた。共通の話題で喜び合い、互いに大きなハートをおさめて写真を撮りあった。
去りがたい思いを絶って踵を返し、少し離れたところでやはり名残惜しさに振り向くと、風にそよぎながら相変わらず「サランサランサラン」と言っていた。
ソウルを発った日の早朝、つもりつもった重い心を手紙に込めて送った。
「サランサランサラン(愛愛愛)」
この桜の木は私に最も難しい注文をしている。
見回せば世の中の全てがメッセージ
この春
私にだけ見える
花として咲いたハートの
深く難しいメッセージ
セウォル号の沈没事故で、死体でも見つかればという親たちの姿を見て、東日本大震災で犠牲となった妻を探し求め、3年かけて潜水の資格をとり一日に何度も海に潜っていた男の人のことを思い出した。
海に消えた幼い命たちは、きっと春には花びらとなって生まれ変わり、私たちに尊いメッセージを伝え続けることだろう。
横に広々と咲く件の桜の左側の枝の一部
数えきれないほど咲き乱れる花を支える右側の傷だらけの幹
風に舞い地面すれすれにしだれる華やかな色。枝垂桜