鐘路区 付岩洞尹東柱文学館 2014 1 29
空と風と星と詩
自宅から付岩洞までは歩くのにとても気持ちのよい道だ。
さらに、そこには私の好きな詩人尹東柱(1917-1945)の文学館があり、その横にある易しく抒情的な彼の詩が書かれた階段を踏みあがると、自然と尹東柱の丘となり彼の詩碑が現れる。
文学館はとてもこじんまりとしているが、最初の展示室では満州で彼がその顔を映した井戸と肉筆原稿を見て、二つめの展示室で青い青い空と風をあび、最後に沈黙だけが流れる薄暗い監獄のような部屋に座って出てくると、彼と彼の生きた時代、そして彼の人生と思想が胸にしみいり粛然となる。若くして国と民族を思い、共同体と宇宙を思索し、詩で表現した彼を仰ぐことになる。
私の詩集が日韓両国で出版され、ときどき日本からその詩集をもって私を訪ねてくる読者たちがいる。わざわざ遠くから来てくれたことが有難く、‘孫戸妍歌人の家’を見せてから一緒に歩いて、景福高、靑瓦臺、七宮を過ぎ、左側に市内を見下ろしつつ丘のてっぺんに至ると、そこに新たに建てられた尹東柱文学館があるので案内する。すると字幕もない韓国語だけの映像を見ても何かを理解したかのようで、心と心に伝わる文学の力がいかに強いものであるかをいまさらながらに感じることになる。
そのコースが気に入ったからか、文学への愛に共感してか、これがちょっとした噂となり、‘李承信詩人との散策’として何度か読者との出会いを持った。
ソウルで出会った日本T.S.エリオット協会副会長であり、同志社大学教授の中井晨氏の案内で、昨年末に尹東柱詩人の母校である同大学のキャンパスにある詩人の詩碑を訪ねた。
由緒深いこのクリスチャン大学は、古いチャペルと本堂などのレンガ造りの美しい建物が多く、尹東柱や鄭芝溶のような韓国人も通ったところだが、最近NHKの大河ドラマ“八重の桜”でさらに有名になった。明治維新に抗い、アメリカ行きのビザも出ず、密航して渡米しフィリップス・アカデミーとアマースト大学、アンドーヴァー神学校を卒業した新島襄が建てた学校で、その夫人が明治維新に官軍として戦う物語が最近小説とドラマでリアルに描かれ、彼女は一躍‘日本のジャンヌダルク’と呼ばれるようになった。
古色蒼然としたチャペルのすぐ脇のよい場所に尹東柱の詩碑、その右側にはもう一人、我らが愛する‘郷愁’の詩人鄭芝溶の詩碑がある。ちょっと小さめで、日本人ではなく韓人校友会が建てたものではあるが、並び立っているので淋しそうには見えない。詩碑を見ながら、遥かな他郷にて海の向こうの故郷を切々と慕いながら詩を構想していた詩人の心を思い、現代日本のエリート学生が歩みをとめて詩人を通して過去の歴史を考えるようになる瞬間も思い描いてみる。
日本の帝国主義時代に生れ、暗く貧しい暮らしの中で人間の生と苦悩を思索し、祖国の現実に胸痛め、その胸張り裂けんばかりの心情を簡潔な詩に表現した我らが詩人、尹東柱。
彼は私たちに省察を促す。
‘星泳ぐ夜’、‘自画像’、‘もう一つの故郷’、‘たやすく書かれた詩’
その純粋な詩に見える彼の限りなく善良で混じり気のない心は、私たちに真実であれと促す。
成功した人の過去は悲惨なほど美しいとはいうが、彼はその生涯に一冊の詩集も出すことができず、ハングルで書いたという理由で思想犯として投獄され、福岡の冷たい監獄の中で二十七年の生を終えた。純潔な魂はそのように惨めにも逝き、それがためにこの地にこれほど愛される詩人となった。
彼の人生には思いもよらない逆転は訪れず、しかも、何ヶ月か後に訪れるはずの祖国の解放を迎え、その感激を詩にすることもできずに逝ったが、永遠なる純粋を私たちに残して去ったその魂は、時が過ぎるほどにさらに光り輝くことだろう。
序 詩
尹 東 柱
死ぬ日まで 空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば
今宵も星が風に吹き晒される
1941 11 20
京都同志社大学のチャペル脇にある尹東柱の詩碑 - 2013 12 25