雲の歴史
私が小学校にあがる前にトランジスターラジオで聞いたドラマ、‘雪が降るのに’のワンシーンが今尚記憶に新しい。男が女に指輪をはめてやるが、あまりにやつれた指に指輪がゆるゆるだねと声をうるませるように甘美に囁きながら雪道を歩くのだ。映像でもないのにはっきりと目に見えるようだった。同じ題名の主題局は今でも私の十八番のひとつだ。 それが韓雲史の作品であることを知ったのは、わずか数年まえのことだ。そういえば、ラジオやテレビドラマ、映画、小説等、彼のヒット作はとうてい数え切れない。阿魯雲シリーズの玄界灘は知っている、玄界灘は言葉なく、勝者と敗者、南と北、赤いマフラー、さらばソウルよ、惜しみなく与え、渡り三代…。 時代と世相と人間に暖かい視線を向け、人が生きるということの意味を作品を通して考えさせた作家韓雲史の記念館が忠清道槐山にある彼の生家跡に建てられた。 足を踏み入れると、南と北の主題歌‘誰がこの人を知りませんか’が聴く者の胸にしみいり、数多くのドラマと映画、小説等の作品年譜と、人の背丈よりも高く積まれたすべての直筆原稿その他の遺品がよく整理されている。 放送界人士としては初めて建てられた記念館である。時代を風靡した韓国第一世代のテレビドラマ作家の全作品と、彼の執筆人生を見せてくれることはもちろん、彼を生み出した故郷塊山の文化的面貌をも見ることができ喜ばしい。
彼の晩年に私は三度お会いすることができた。短歌歌人であった母孫戸妍の伝記を書いた日本人作家の北出明氏と歌人の家でお会いしたのが最初で、二度目は2008年母の五周忌行事の際、母の短歌を朗詠してくれた演劇俳優のパク・ジョンジャ氏が「あら、後ろに韓雲史先生がいらっしゃるわ」というので招待状を送らなかった私も驚かされた。そして三度目にはチェ・チャンボンMBC社長と昼食を共にした。
この時代最後のロマンチストと呼ばれた方が、会うなり私の腰をつんつんこづきながら「恋愛したいなあ」と言うので、いったい何事かとたじろいだが、彼の言葉をよく聴いてみると、母の伝記を読んで感動したので、その母孫戸妍と恋愛したいという意味であるようだった。
純粋さが互いに通じるのだろうか、とにかく有難く思い、同い年の二人が出会えなかったことが本当に残念だった。力のあるうちに母の人生を書きたいと言ってくれたのに、それから間もなく2009年8月に亡くなられた。多くを話せなかったことが惜しまれたが、残された数多くの作品の中に彼は生き続けるだろう。 その晩年を毎日のように共にした崔書勉先生、ほぼ生涯にわたって隣同士でありMBCを通してドラマを共作したチェ・チャンボン先生、そして韓雲史先生にシナリオ作家として選ばれ、後輩作家として付き添いながら自らも数多くの作品を書いたシン・ボンスン作家の三人は、 韓雲史先生の人間味と他の作家とは異なるスケールを語った。 作品の中に国と民族が進むべき方向を提示し、社会と時代を背景としながら、それを超えるヒューマニズムとロマンチシズムの溢れる魅力的な人間像を描いて、一時代の国民を魅了した作家。その暖かな人間にわずかに三度、それも短な時間しかお会いできなかったことがただただ残念だ。
雪が降るのに 玄界灘は知っている 玄界灘は言葉なし 勝者と敗者 赤いマフラー 南と北
人生と人間の道を尋ねた 魂を吹き込んだ自身の歴史が 全民族の歴史だった 矮小な人間は近道をするほかない 一時代の歴史を 心で泣かねばならなかった 韓 雲 史 その雲の歴史
左からシン・ボンスン作家、チェ・チャンボンMBC社長、崔書勉先生 - 2003 6 14 忠北塊山
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