1887年に建てられた帝国ホテルのロビーと壁画
李承信の詩で書くカルチャーエッセイ 出会い 2023 1
ほぼ4年ぶりの東京です。 コロナよりも少し長かったです。
幼いころの父との思い出のため、東京ではいつも同じホテルです。 羽田空港から駆けつけてその入り口に入ると父の声が聞こえてくるようで涙がにじみます。私が孤児なんだと感じる瞬間です。
広いロビーには過去数十年の記憶のうち最もたくさんの人があふれていますが、関係者に聞いてみると過去3年間は蟻一匹も見当たらなかったといいます。
私の最近作である『なぜ京都なのか』1、2の日本語版を持ってきました。韓国語版が出た際、日本の知人に送ると、自分たちの話なのに韓国語では読めないと言われました。 そこで何年かかけて日本語版を準備しました。チェ・ソミョン先生をはじめ、カン・ウォンヨン、ピーター・ヒョン、ペク・ソンヨプ、ハン・ウンサ、イ・オリョンなど、いつも力になってくださった先生方は鬼籍に入られてしまいましたので、両手で数えられるほどのわずかの方々にだけでもお渡ししようと東京に来たのです。
一日7、8ヶ所一週間ずっと本をもって訪ねていくので、懐かしい場所に寄る時間もなかなかありませんでした。向いにある日本初の西洋式公園、人でにぎわう日比谷公園を一回りし、後門を出て銀座を歩くと、人出はあるのにどこか元気がないように感じます。
80年代、東京で短歌の研究を再開した母をアメリカから訪ねていくと、銀座四丁目の建物に二階にある喫茶店に行き、一緒にお茶を飲んだものですが、この前来たときにはあったのに、見上げるとなくなっていました。
銀座の中心地にある和光のすぐ横にあった山野楽器店はいつも楽器が見栄えよく並べられていて、小さなオカリナを買ったりしましたが、移転してしまったのかそれも消えていました。ビザを取る必要がないので観光客は増えましたが、どこかで、あれっこれは私の知っている東京ではない、三年間、韓国で毎日見て感じたものもここにはないだろうと漠然と思っていたのは間違いでした。虚しくなりました。
それでも嬉しい出会いはありました。その人たちの情はそのままでした。その中で二人。
前田 俊
出会ったのはずっと昔。私がワシントンのジョージタウン大学で勉強していたとき、弟がコロンビア大学に留学することになり、週末ごとに何時間も電車に乗ってご飯を作りに行きました。弟の部屋には当時珍しかった日本からの留学生だった前田氏と現在のロッテ会長である辛東彬氏がよく訪ねてきましたが、弟は恋愛で忙しいのか留守にすることが多く、居合わせた私とよく話をしました。
前田氏は三菱商事出身で投資会社を営み、今度も歓迎してくれました。FCCJ 日本外信記者クラブは、何年か前に私の歌集の出版記念会をしたこともありますが、クリントンやオバマなどがグルーバルイシューについて外信記者たちにスピーチをしたところでもあります。彼は私をそこに連れて行って関係者に私の新刊本をみせ、日本に来ている外信記者たちは「なぜ日韓関係がよくないのか」に関心があるはずだから、この本を紹介し講演する機会を作ったらいいと言ってくれました。
前田 俊 - FCCJ 日本外信貴社クラブ 東京 濱口 泰三
母が進明女高を卒業するや、韓国最後の皇太子妃方子様は母を東京に留学させました。 母の帰国からずいぶん経った1965年になってようやく日韓交流が成されますが、母の同級生の中でも濱口のおば様はわが家にも来るなどして交流が深かったです。日本を代表する知性である中西進先生のもとへ母をつれていき、韓国で唯一の短歌歌人として、周囲から非難されながらも短歌を詠み続けていると泣きながら訴えたのも濱口のおば様でした。
ビザの取得も難しかった学生時代、国際青少年会議のため東京に行き、会議後に濱口のおば様の家に何日か泊まったこともあります。日本語は一つも知らず、その家の台所で教わった「きゅうり」「かぼちゃ」「なす」が、後年同志社大学で学ぶ前までの私の日本語の実力でした。
濱口のおば様は私と同世代の息子である泰三氏に、私を電車の乗せて日光まで見学に活かせもしました。電車に乗ったのは思い出せますが、日光のことはよく覚えていません。何年か連絡もとらずにいたので連絡してみると、娘さんが母は昨年98歳で大往生し、安らかに旅立ったとのことでした。私の母よりも20年長生きしたことを思うと、これまで会う機会のなかったことが残念です。
そうして泰三氏がきました。 数十年ぶりのことなので、ホテルのロビーで待ち合わせてもお互いを見つけるのに一苦労でした。 52年ぶりだといって、52本の赤い薔薇と高級なお菓子を両手にかかえて近づいてきました。 どうということもないものでも素晴らしい映画が作られるものですが、これは本当に映画のワンシーンのようでした。
作ってきてくれたアルバムを開くと、当時濱口家の前で撮った写真と日光で撮ったカラー写真が色あせることもなく輝いていました。
濱口のおば様が満州で生まれ、東京に来て私の母と同じ大学に通ったこと。当時私も会う機会のあった父の話、自分が生まれた家を三階建てにリフォームし、1階は濱口のおば様が、2階には姉が、3階は結婚したけれど自分たちが住んでいたこと、おば様の逝去を機に1階も姉が使うようになったこと、父の事業も姉が継いだことなどを語り、自分はもうお金はいらないとまで言います。
肝心のあなたはこれまでどうしていたのかと尋ねると、日本屈指の企業である伊藤忠商事の社長だったとのこと。
写真の中の純粋さをそのまま保っていること、薔薇の本数の発想など、驚かされるばかりでしたが、仕事も万事こうした調子だったのだろうと思いました。 初めてもらった 52本の薔薇 – Tokyo
たくさんの時間が流れた後でようやく、幼いころ「子どもは未来の柱」という言葉を校長先生から聞いたことを思い出します。漠然と人が柱になってくれるのではなく、どんな社会であれ私たち自身ひとりひとりが参加して変えてゆかねばならないことを今さらながら悟らされます。
国の外に出ると、世界とともに呼吸をしている気になります。
世の中は狭いものとは知りながら 出なければ実感できないこと
わたしたちだけが分かつ喜び、悲しみ、辛さではなく すべてをともに 等しく経験してきたという事実が ヒーリングとなり、慰めとなる
東京銀座四丁目
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