昨日は金山政英第2代駐韓日本大使の忌日でした。 彼は日本大使だったとき、当時の朴正熙大統領に懇願され、日本の外務大臣、総理、新日鉄の会長などすべてが反対しているにもかかわらず、新日鉄と浦項製鉄との技術提携という不可能な課題をついに説得して成し遂げ、今日における韓国の鉄鋼、造船業、自動車、半導体の発展をあらしめました。 その彼は崔書勉先生に惚れこみ、ともに日韓親善に献身し‘死んでも彼のそばで日韓親善に尽くしたい’といって、坡州の崔家のお墓のそばに骨を埋めました。 たくさんの人々が集まりましたが、その中に坡州に住む日本人女性が30人ほどいました。帝国主義時代の日本が犯した罪をどのようにして償うべきかと考えながら、韓国人の夫とその母、そしてかわいい子どもたちに精誠をつくしている方々ですが、3年前に私の文章を読み、日韓親善に寄与した金山大使が自分たちの住むこの坡州に眠っていることを知り、お墓の周りをきれいに整え、感謝する心で彼の志を今後もずっと称えていきたいといいます。
寄り添って眠る金山大使と崔書勉先生、二人の涙ぐましく美しい友情も感動的ですが、死してなお人をしてこのような心を芽生えさせるのをみると、精一杯に尽くされた精誠にはこのような報いが訪れるのだという思いを抑えられません。 献身する人々が現れ、その献身を知った人々が現れる世の中は美しいです。 私のスピーチを付します。
2021 11 1
金山政英 崔書勉のそばに眠る 私は金山大使にお会いしたことはありません。 ですが、そばに眠られているとても愛された崔書勉先生を通してお二人の友情についてお話しをうかがうたびに、胸が熱くなって感動し、まるでその方をよく知っているような気持ちになります。 崔先生はここにお参りにくるたびに私を連れてきてくれましたが、今日ようやくこの場に立ち、地上でのお二方の人生の意味に思いをはせてみます。 ご存知のように金山大使は外交官として日韓関係に献身されましたが、日韓関係の最高権威として‘批判するとしても相手の視角で見る度量をもて’と主張する崔書勉先生が、当時東京に建てた韓国研究院の国際関係共同研究所の所長として、崔先生とともにご活躍なさいました。 日本の外務省が用意した高位職を辞退し、日韓親善にのみ没頭されたのです。 金山大使の韓国への愛は大変に深いものでしたが、そこには崔書勉の魔力と魅力が一役買っており、崔書勉なしに金山大使を語ることはできないと思います。 25年前、崔先生のお母さまが眠るこの地にお参りに来られた金山大使は、「私も死んだらここに、崔先生のそばに眠って日韓親善について語りあいたい」とおっしゃったそうです。崔先生のお墓はそれまで23年もの間墓標が建てられていましたが、昨年ついにお墓が建てられ、首を長くして待っていた金山大使の横に遺骨が埋められました。 碑文には詩人クサンによる‘私は死んでも日韓親善を助け見守る’という言葉が、金山大使の遺言として記録されました。 日韓国交正常化直後、周囲のすさまじい反対にもかかわらず3.1記念式典に参席しました。この式典に参加した唯一の駐韓日本大使です。 このお二人が日韓友好、日韓親善の先頭に立ったのは、知的にも霊的にも誰もがうかがいしれない限りなく水準の高い次元のことでした。 地理的にも、歴史的にも、しかも1400年前にはたくさんの人々が朝鮮半島から日本へ渡って行った事情による血縁的にも、最も近いもの同士であるはずの隣国が、たくさんの文化交流にもかかわらず、現在最悪の関係になってしまったことは誠に残念なことですが、目を閉じてなお日韓親善のために協力し合うこのお二人によって、そしてもうひとつ付け加えるなら私の母の生涯を通じた詩業による切実な平和への祈りによって、必ずや日韓関係がよくなることを私は信じます。 生きて神さまに賜った Mission 使命を完遂し、こうして眠りながらも日韓の協力についてずっと話続けているお二人の意志を、私たちはもちろん両国国民が引き継いでいきますので、お言葉のとおり、見守っていてください。 日韓首脳会談にて両国首脳が口にした私の母の平和の短歌はこうしてはじまります。 切実な望みが一つ吾れにあり 諍いのなき国と国なれ
崔書勉先生のお墓 - 坡州 2021 11 1 ‘私は死んでも日韓親善に尽くし見守る’ 詩人クサンの筆 ‘私は死んでも日韓親善に尽くし見守る’ 詩人クサンの筆
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