ブロックやアスファルトの歩道を走るとき、いつも思うことがある。
五大洋の海水を除けば、地球を覆っているものは土だが、ちょっと楽をしようとその土を石で覆い、アスファルトで覆ってしまったので、どこもかしこも塞がれて息もできない地球はどんなに息苦しいだろうか。
PM2.5やらゴミやら、汚染による環境破壊も問題だが、すぐに目に見えるというわけではないとしても、外に出さえすれば目につくのが都市の歩道とそれを覆うアスファルトだ。大通りはもちろん、都市の路地という路地に石やレンガやアスファルトが敷かれている。
人類の文明が発達するほどに地球の姿が変わっていくが、一度そうなってしまえば、さらにその道を進みこそすれ、後戻りは容易なことではない。
いったん家を出ると、息のできない大地も気がかりだが、まずはおしゃれなハイヒールが道路のレンガブロックにはさまらないように気をつけなければならない。新しい靴をおろすたびに踵がブロックにはさまり傷がついてしまうからだ。
アメリカではクルマに乗るのが常なので、マンハッタン以外では歩くこともないが、韓国に似た日本では歩くことが多い。
東京でもそうだが、少し前まで勉強のために京都にいたときは、よく歩いたものだった。主に自分の部屋から大学への道、そして、私がよく歩いた市内の何ヶ所には石やレンガが敷かれているが、細かくきちんと組み敷かれたそれは落ち着いた色と形で歩くのにちょうどよく、靴に傷もつかないばかりか見た目にも美しいほどで、息苦しい思いをしている大地のことをしばし忘れさせる。
何年か前、東京特派員をしていた鮮干錠記者が、しばしソウルで過ごして東京に戻ってきて、東京の歩道ブロックの敷かれ方とソウルのそれとを比較した記事を書いたが、目のつけどころがよくて感心したことがある。今詳しくは思い出せないが、二国間の差を歩道ブロックにみる徹底した職人気質の差にからめて説明していた。
歩道ブロックに限らない。京都で街路樹を剪定する作業をしばし立ち止まって見たことがある。真心のこもった姿が目に心地良かったからだ。その技術と伝統には長い時間の裏打ちがあることだろう。代々家業として受け継がれてきたものかもしれない。昔なら誰もが大統領や四つ星の将軍になろうとした韓国は、最近こそ将来の夢も多様化したようだが、それでも街路樹の手入れやブロックを敷く仕事を受け継ぐことを望むことはないようだ。
区庁で予算が残ると年末に歩道整備に使ってしまうというウワサもあり、歩道を新しく整備するたびに今度こそはと期待してみるが、ブロックの色は変わり映えせず、形もでこぼこで揃っておらず、ヒールが挟まってしまうことが経験者には手に取るようにわかる。私が育ったソウルの西村は、古い韓屋と狭い路地が多く、それがむしろ魅力だが、新しく大きな石板を狭い路地に敷き詰めたのは、似合いもせず洗練ともほど遠く、今度も失望だ。
京都にはあまり目立たないいくつかの色が調和をなしたレンガが敷かれたところが多い。単価的にはもっと高いはずの石が敷かれたところも、祇園をはじめあちこちにあり、その細心のデザインに込められた真心はただごとではなく、踏みしめると姿勢が正される。
長い歴史のある東山の高級な町を歩くと、そこにはさらに歴史の長い、何百年もありそうに見える石板が敷かれており、歴史の匂いが体に染みとおるようだ。ヨーロッパにも歴史の古い丸い石が敷かれていて、見た目にはおしゃれだが、整っていないので靴で歩くには楽ではなかった。
いずれにしても大地は息がつげないようなので申し訳ないが、どうせ敷かねばならないものなら、歩くのに楽で、見た目も調和されていて芸術の香りすらも感じられるようにすれば、歩く足並みも心ももう少し軽くなるだろう。