嵐山に行くと必ず訪れるところがもうひとつある。
‘花筏’という温泉旅館だ。‘筏’という言葉が昔の言葉のせいなのか、高尚な語彙のせいなのかはわからないが、日本人に‘筏’という言葉を使うと、ああといって微笑む。
日本は火山の多い島国なので温泉がたくさんあり、日本式宿泊施設である旅館には、宿泊客だけが利用できる温泉があるが、なかには外部からの入浴も可能なところがあり‘日帰り温泉’と呼ばれている。宿泊はせず温泉だけを楽しんで帰るという意味だ。
私たちの観念では、ホテルは高級で高く、旅館はそれより安くて廃れているところというイメージであり、誰かが「ちょっと適当な旅館を予約して」といえば、それは「どこか安いところを頼むよ」という意味のはずだ。しかし、日本の旅館はホテル以上のイメージで価格も高い。日本伝統の畳部屋に着物をきた仲居さんが朝夕には布団の上げ下げをしてくれ、何よりも一人一人を手厚く親密にもてなす。朝ごはんも夕ごはんも出る。だからこそ宿泊客だけがその中にある小さな規模の温泉を楽しむことができるのであり、その旅館の宿泊客でない者がそれを楽しむのは容易なことではない。
嵐山の中心にある渡月橋の両岸には大小あまたの旅館がひしめいている。その旅館街の入口に‘花筏’という旅館がある。同志社大学で勉強していたころは時間がなくて、週末の休みに電車に乗って、嵐山とは反対方向の鞍馬温泉に何度か行くことがあったが、大学のすぐそばの私の部屋からはかなり遠く、しかも何度か乗り換えなければならない嵐山にはなかなか行けなかった。
あるとき嵐山で、そこにある旅館のひとつひとつをめぐっては‘日帰り’ができるかを尋ね歩き、ついにそれができる‘花筏’を見つけた。
860円を出し、旅館の3階にあがると温泉がある。小さな空間の温泉だ。浴槽は体一つでいっぱいになりそうだ。どうかすると棺桶に入っているような気にもなるが、湯かげんがほどよく、柔らかなとてもいい湯だ。その湯を出て奥の戸を開くと、同じサイズの半露天風呂があり、どこからか吹くそよ風が気持ちいい。浴衣がけでさらに4階の屋上にあがると、広々とした空が見える露天風呂があり、それも楽しむことができる。ごく私的な私のためだけの空間のようで、嵐山に来るといつも利用するが、外部からの利用は午後4時までなので、他を見物してうっかり時間を逃しやすい。
そんなときには、花筏からちょっと何分か歩くと遅くまでやっている‘風風(ふふ)の湯’という湯浴み処がある。柔らかく包み込まれるような私だけの空間という感じではないが、それなりにモダンな感覚を味わえ、入ってみる価値はある。
この小さな温泉の空間をみると、昔日本で出た李御寧先生の『縮小志向の日本人』という本を思い出す。日本が他の国にくらべモノを小さく作ったり、小さな空間を活用する術は感嘆に値するほどで、その綿密さと細密さを独特の眼識で照らし出し、日本でもいっとき大きな話題となった本だ。
しかし、よく見ると世界的な水準で大きなものも日本にはかなりたくさんある。大きな競技場、高い建物、世界的スケールの寺院、世界で最も大きな寺、最も大きな山門など、考えてみるととんでもなく大きなものもたくさんある。しかし、ほとんどの国では驚くほど大きく高くということが主に求められるが、日本はそれだけでなく、小さなものにも独特の美を見出し、また作り上げもするので、そうした面が世界の人々の目を引きつけるのだろう。
京都は温泉で有名というイメージではないが、見どころは多い。何日か滞在しても温泉に行かないこともありえる。私も京都に勉強しに来て、半年が過ぎて初めて京都には温泉はないのかと周りに聞いたほどだ。そして、嵐山に日帰りで入れる快適な旅館の温泉を見つけることになったのだ。
近くには一泊30万円(3千ドル)もするホテルがあり、花筏も一泊3万円以上なので、泊まれるものなら泊まりたいが、そうはいかなくても860円のお風呂はおススメだ。
その謙遜の美を味わうべきだ。
京都での小さいけれど満ち足りた幸せだ。