6 25 英雄 白善燁将軍 2019 6 23
李承信の詩で書くカルチャーエッセイ 6 25 英雄、白善燁将軍
6 25(朝鮮戦争)の英雄、白善燁将軍が百歳でもお元気でおられることが嬉しい。毎日来てもいいとおっしゃってくださっても、あちこち飛び回ってばかりで、たまにしかお会いできないが、6 25が近づいてくると自然と足と心が龍山の戦争記念館にある将軍の事務室に向かう。
その年の6月25日、北朝鮮が突然韓国に侵攻するや、二十代の将軍として洛東江の多富洞戦闘の先鋒に立ち、平壤まで昼夜歩き通して勇敢に進撃していったという何度も聞いたその話をまた聞くためだ。
父のDNAを内に感じている私は、常に亡き父に会いたい思いでいるが、父の知人や同期といえる人も崔奎夏元大統領を最後にもう誰もいないようで残念でならない。そうしたある日、戦争記念館に事務室があるジョン・イルファ博士が白善燁将軍は父の卒業した平壤師範の出身だといって私を連れて行った。
戦争経験もなく、同期でもないので父のことは知らないとでも言われたらどうしようと心配が先立った。
ところが、父の2年後輩にあたる将軍は私を楽にしてくださり、あれこれと父のことを仔細にお話してくださるので、懐かしさがこみ上げてきた。将軍の記憶力はあきれるばかりで、言葉で表現することはできない。平壤師範時代、その後各自それぞれの道をゆくことになっても、父の歴史を全てご存知だった。
こちらから聞きもしないのに、李先生のお父さんは平壤師範のころから多方面にわたる秀才で、満州での教育と教職、ソウルでの官職、事業など、すべてに頭角をあらわし…と決して私の機嫌をとるためだけではないようすで語られた。90余年も前の話を今なお生きておられる方から聞くと、物悲しくも慕わしい父の思い出につかってしまう。
今回お目にかかったときには、とても残念そうなお姿だった。言葉でそうとは言わないけれど、最近の金元鳳事件のためか、一部の誹謗中傷のせいか意気消沈してみえた。ただ心でそう感じた。日本帝国主義時代に生まれて勉強し、仕事もしてきたことに難癖をつける手合いは相手にする価値もないが、自らが送ってきた人生と戦闘をかえりみてのことだろうか。 「私は生涯をかけて人と国を助けてきました」私はうなずいた。
マッカーサー将軍とともに撮った写真はもちろん、軍出身の新アメリカ大使ハリスが将軍の誕生日に膝をついて礼をつくした写真のある事務室を出て、龍山のドラゴンヒルロッジの食堂に場所を移した。
お話の途中でまた「李允模先生は秀才中の秀才で、同じく秀才の夫人と出会い、その愛の結実が李先生だ。よいこともあるだろうが、大変なことの方が多いだろう。しかし、神様がおられるからきっと報われる。そうでないとしてもそれが人生だ。それが人生だ。」とおっしゃられた。百年間の自身の人生を振り返っての言葉だろうが、父になだめられているようで、ありがたさに胸がつまった。
韓米同盟は強固であるべきですか? ㅡ 70年の私の経験によればそれしかない。安保だけでなくアメリカの支えなくして世界を相手取って貿易投資経済をすることはできない。
日本とも近づくべきですか? ㅡ 日本とは近すぎてもだめだが遠すぎるのはもっとだめだ。(そういいながら日本の歴史について長くお話しされた。)日本と一時陸軍はドイツのように強く、海軍はイギリスのようにすごかった。あのとき、アメリカに攻撃さえしなかったら、今はもっとすごいことになっていただろうに。しかし、今やアメリカとは切っても切れないチームとなり、これからの太平洋を治めるだろう。
中国はどうですか ? ㅡ 中国はあまりに大きいので永遠に追いつくことはできないだろう。
将軍は戦争のあらゆる経験、作戦、軍事戦略を知り抜いているが、それを国の安保と国防に役立てられないことがただただ残念だと繰り返しおっしゃった。将軍にお会いするたびに、頭脳、記憶力、心、精神力、愛国心というものは、百歳という年齢とは何の関係もないことを知らされる。
「尊敬する先輩のお嬢様に、こんなにささやかなおもてなししかできず申し訳ない」 かつては将軍がこの食堂でステーキを食べる姿が羨望のまなざしで見られもしたが、将軍はつねにへりくだった態度で、私がこれまでに険しい人生をおくってこなかっただろうかと思いやる暖かい人間的な面をみせる。
懐かしい父のことをこんなにもよく知る方、この方がいなかったら韓国の今はないという英雄の手をにぎり、その肉声を目の前で聞いていることに、私はいつも感激する。
「また、おいでなさい」
将軍に会うと謙虚になり、いつも国を愛する心がわく。
壕の内座りいるままの屍を踏み越え踏み越え吾は出でゆく
孫戸妍の6 25短歌
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