いつもなら外国や地方に行くと短い時間にその土地の歴史と文化を知るために、博物館や美術館を訪ねることになるが、今回は必要からシドニーでの講演の後、美術館と博物館から訪ねた。 今学期から檀国大学院で‘文化芸術人文学’の講義をもつことになり、‘世界の文化芸術人文学’のタイトルでいくつかの文化先進国を扱うが、そのオーストラリア篇のためだ。 シドニー(Sydney)の現代美術館、New South Wale州立美術館と、往復10時間の距離にある首都キャンベラ(Canberra)の国立博物館と国立美術館をみた。 ほぼ50年前、比較的早くから私は西欧の美術館をたくさん見て歩いた。ワシントンやニューヨークに住んでいたときには、美術館の展示によく通った。特にワシントンは首都であるせいか、全ての美術館や博物館は他の都市とは異なり無料なので、僑民に対しても子供を連れてよく行くことをすすめ、我らの後裔たちを経済人としてのみ育てるのではなく、卓越した芸術人として育ててほしいと話しもし、たくさんの文章にもそう書いてきた。 オーストラリアは歴史も短く、私たちがよく知る西欧のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、モネ、シャガール、ピカソのような有名な画家の絵はあまりないが、英連邦国家として18、19世紀のイギリス画家たちの作品が豊富で、それらとともにオーストラリアの画家たちの作品がよく整理されている。壁には絵だけがあるのではなく、ところどころ壁を巨大なガラスにして外にある木や空をそれがあるがままに見せてくれもする。 今回私を感動させたのは、これまで知らなかったオーストラリアの原住民‘アボリジニ’だった。これまで私たちの知っていた作品とはまるで違う。ホテルの部屋にも絵が二枚かかっており、この地の原住民のものだろうと思ったが、彼らの名が‘アボリジニ’だということを初めて知った。 シドニーの NSW 美術館は建物もすばらしく、よい作品も多いが、原住民の作品も広い場所を占めている。特別な技巧があるわけではないが、かえって単純で純粋無垢な心が感じられる絵で、いちいち筆で点を打ちながら作るので、DotPaintingともいわれている。木を削って作った彫刻品もある。 しかし、実際に彼らの心をわずかでも覗き見ることができたのは、首都キャンベラで立ち寄った、外観がとても多彩な国立博物館の一隅でかかっていた3分ほどの大きな映像の画面でだった。原住民といえば長く暮らしたアメリカのインディアンを思い出す。しかし、それにしたところで考えてみれば本当に会ったことはなく、主に映画や映像、本を通してしか知らない。 アボリジニの顔を初めてみて本当に驚いた。 していて見慣れないものだった。アメリカンインディアンは東洋から来たという説があるが、これほどの異質感を感じることはなかった。 ‘先祖代々私たちの住み慣れたこの地にようこそ~’ 純朴なその一言に語られないたくさんのことが込められている。 博物館を回ってみた。18世紀後半にイギリスの囚人1500余名がここに送られた。彼らは両足に鎖をはめられながら壁石を積み上げる仕事に従事した。囚人たちと同じように両足に鎖をはめて座ってみろというベンチもある。鋭い剣が展示され、銃もあるかと思うと、とても美しい当時描かれたオーストラリアの風景画もかかっている。 資源に恵まれ、四季があるここに押し寄せたイギリス人たちの銃と大砲に、悠久の時間を生きてきた原住民たちは膝を屈したのだ。純粋なアボリジニたちは、先祖代々住み慣れた平和な地をある日突然襲った鼻の大きな西欧人に命乞いをするために、両手をあげて従順したのだろう。 他人の土地を根こそぎ奪いさる情景は説明などなくても想像がつく。アメリカも南アフリカも東南アジアもみなそうだったではないか。力もなく武器も作れない天真爛漫なものたちがみなやられてしまったのだ。 どのような国であれその歴史を覗きみればみな奇形だ。私がこの地を踏むことを寛大に歓迎してくれることは、2百年前にアボリジニの地を踏みにじったイギリス人たちが、これまで主人づらをしてきたことまで受け入れるという意味だろうか。 そこにいたるまで心の葛藤がなかったはずがない。 心の動揺と迷い、屈服にいたるまでの長い長い過程があったはずだ。私はただ、彼らが先祖とともに暮らしてきたこの平和な土地に、2百年後にわずかに足を踏み入れ、その結果だけを見ている。その過程のその心を想像すると私は打ちのめされるような感動をおぼえる。 アボリジニは一箇所に集められて住んでおり、仕事がなければ政府が衣食住を保証するという。衣食住が人のすべてはないだけに、彼らが心を広げ、押し入ってきたものたちを抱擁し、数多くの殺人と略奪を赦すまでの道のりを、ふぅ~と荒い息づかいとともに思いやる。 力なき民族にはそうする道理しかないのかという思いもよぎる。 南半球のキャンベラで遠く北半球を望みながら。 |