零下16度に何の準備もなしに入院し、何日か前退院するときには春の陽ざしが眩しかったです。
長い冬でした。
転々とした三つの病院ごとに窓から見えるものといえばアパートの建物ばかりでした。
私が生まれ、育った都市。20余年間のアメリカ暮しであんなにも恋しかったのが、ほんとうにここだろうかと思わされます。
私が文章を書き、思索し、20冊の本をつくる間に、人々はこんなにもたくさんの建物を建てたのだなあと驚き、一戸一戸その中に住む人々のことを考えました。
私はなぜそこでそのような光景を毎日眺めなければならなかったのか。
首にできた傷に炎症が生じ、それを掻き出す作業が、雪の舞うときから春の陽ざしが射すまで続きました。恨めしくも痛い作業でした。
息を荒くつきながら見慣れない光景に眺めいりました。
新しい本の出版を控え、京都で撮影した映像を12本のドキュメンタリーに作成中でした。
人は仕事をし過ぎるから神様が休めと言ってくれているのだと言いますが、一寸先も見えない惨憺とした心情と緊張した時間は、休みと言えるようなものではありませんでした。
アメリカで、恋しくてしかたないのはある特定地域ではなく、父母という故郷だったのだ、孤児とは幼くして父母を亡くしただけの存在ではないのだなあということを実感し、壁掛けテレビで見た平昌オリンピックで倒れそうになりながらも勝利したフィギュアスケート選手‘羽生結弦’の苦難の過去に思いを馳せた瞬間に降りてきた霊感の詩を、病院の食事メニューの小さなメモ紙に書き留めました。2ヶ月間鉛筆を握ることもなく、ノートも本もなく、泣いてばかりでした。
退院する前日、日本の尹基先生が訪ねてきました。これまで見舞客はお断りしていましたが、遠くから来られたこともありましたが、そのときぜひ会いたいといってきかない先生の必死さに説得されない人はいなかったでしょう。アパート共和国が見える大きな窓のある部屋で、三枚の小さなメモ紙にきっちりと1番、2番、3番の歌詞を書くと、先生はそれを孤児記念館に展示すると言いました。
尹基先生の母親は日本人で、木浦の青年牧師尹致浩が90年前につくった孤児院で、三食を与えるだけではいけない、笑いも授けなくてはという心で孤児たちを迎え入れてきたピアノの先生でした。青年牧師と結婚した彼女は、夫が行方不明になった後も孤児院の経営を続け、解放(終戦)を向かえたとき、日本人は皆追い出されたにもかかわらず、この国に残り孤児三千名を育てました。
先生は韓服を着て韓国語で話す母親のことを韓国人だと思って育ったといいます。先生の母親は孤児も息子も差別せずにともに育てました。孤児院は2代と続きませんが、この孤児院は差別のない子育てによって2代、3代と引き継がれています。
先生は日本の東京、京都、大阪、堺、神戸に日韓両国の老人を受け入れる大規模養老院を5つも建てました。
‘孤児のいない世の中’を夢みた母親の精神を受け継ぎ、先生は今年UNに‘世界孤児の日’の制定を推進します。そのときうたう歌の歌詞をというお話があってから3年にしてあふれ出た純然とした幼心の詩です。
退院の翌日、孤児院‘共生園’90周年を記念する集まりで、その‘孤児の詩’を朗読してほしいと頼まれましたが、今はとても無理なので代打をお願いしたいといいました。しかし、先生は作詞家本人がするべきだと信じている様子で、3枚のメモ紙をもって行ってしまいました。
家に戻ると、アパートの光景と季節はまた変わり、大きな西向きの窓に、仁王山と十字架、裏の家にはためく洗濯物と丘の上の樹齢数百年の銀杏の木が空高くたくさんの枝を腕のように伸ばしているのが見え、幼い頃から見慣れたカササギがさわやかな春の空を自由に飛んでいました。