「詩人には‘夭折の特権’というべきものがあって、若さや純潔をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をもひきつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ。」日本の詩人、茨木のり子の言葉だ。
夭折した尹東柱の三つ目の詩碑がこの十月に日本の宇治に建てられた。宇治は京都から電車で三十分ほどの距離で、長くのびた山裾に宇治川が長く流れる美しいところだ。日本初の小説‘源氏物語’がそこで書かれ、川端には作家の銅像がある。日本の十円硬貨に刻まれた世界文化遺産の平等院があり、コーヒーよりも宇治茶が有名だ。
長い川にかかるいくつかの橋のひとつである天ヶ瀬の吊り橋には事緣がある。ソウルの延禧専門学校を卒業した尹東柱は、1942年3月東京の立教大学文学部に入学し、五ヵ月後には京都の同志社大学に編入する。在学中に学友たちと宇治に遠足に行き、天ヶ瀬の吊り橋で彼にとって最後の写真を残すことになる。
数十年が過ぎ、宇治のその橋から歩いて十分ほどのところに、もう一つの尹東柱の詩碑が建てられた。そこには‘詩人尹東柱の記憶と和解の碑’という文字と、彼の詩‘新しい道’が日韓両国後で刻まれている。
七十五年前、二十五歳の青年尹東柱が立ったその場所に、私の足跡を重ねて立ち、川と山と彼が眺めた空を見上げると、深い感慨に包まれた。
暗く寂寞とした生活の中で、人間の生と苦悩に思いをこらし、'六畳部屋を出ると他人の国'と詠い、失われた祖国に胸を痛め、その心を節制された詩に描写した尹東柱。凍結された彼の限りなく純潔で純粋な魂に思いを馳せてみる。
平等院、宇治の大寺刹と博物館で古代百済の香りをかぎ、五時には暗くなる夜道を走って京都市内の尹東柱が住んだ下宿先に建てられた詩碑の前に立つ。昨年まで同志社で一日に何度も眺めた詩碑には、‘空と風と星と詩’の序詩‘空を仰ぎ’死ぬ日まで空を仰ぎ一点の恥辱なきことを~ が刻まれている。
治安維持法違反で京都の下鴨警察署に捕まる前、尹東柱は同志社大学で一学期を送ったが、その下宿のあった一帯を京都造形美術大学の設立者が買い取り、校舎を建てるとともに、その前に見栄えよく詩碑を建てた。同志社からすぐのところでもあるにもかかわらず、私は帰国後に改めて訪ねて初めて見ることになった。
私の住むソウルの町の近くの尹東柱の下宿を思い浮かべた。そこには額はあるが、下宿の主人の息子がその前で焼き芋を売っている。
詩人尹東柱の誕生百周年の年の最後に、私もこうして彼の三つの詩碑を一日で見ることになった。京都の尹東柱を偲ぶ会の朴熙均会長が、親切にご案内くださり多くの資料を見せてくださったおかげだ。彼の尹東柱への愛と熱情はすさまじかった。
特に韓国で映画‘德惠翁主’がかかっていたころ知り合った日本の作家‘多胡吉郎’先生は、德惠翁主が日本にいたときに作った短歌を発見し、映画製作にも寄与したが、NHK TVのPDだったとき、何年かにわたる企画として尹東柱のドキュメンタリーを制作なさった方だ。同志社大学に尹東柱の詩碑を建てようとどんなに試みても難しかったが、多胡先生のドキュメンタリー放映後にそのキャンパスに詩碑が建てられた。宇治の天ヶ瀬吊り橋で写した詩人の最後の写真もかれが発見してたもので、その写真一枚の縁でついに詩人の三つ目の詩碑が建つことになったのだ。かれは日本で、尹東柱百周年に合わせ、その短い生涯の評伝も出された。
日本の尹東柱精神を愛する方々により、京都地域に詩碑が三つも建てられるとは。考えて見ればすごいことだ。
わずか二十七年と一ヶ月の人生。1917 12 30 - 1945 2 16
「夭折の特権とは若さと純潔をそのまま凍結すること」と日本の詩人が語ったというが、尹東柱のその時代的な夭折はさらに悲惨なものだ。しかし、深い谷間であればあるほど、すぐそばにより高い山が聳え立つという言葉は真理だ。七十五年後のいま葛藤の両国民にその純粋な魂が光を発しているのを見る。
獄死した福岡市は、何年か詩碑の建立を拒絶しているが、少し後には東京に尹東柱の四つ目の詩碑がさらに建つという。
夭折した彼が当然享受すべき特権だ。