おでんを食べながら
もうずいぶん前のことだ。
ソウルで母が突然逝ってしまい、さまざまな思い出が湧き上がった。1980年、ワシントンにいたころ、ソウルに帰る途中で当時東京の大学院で万葉集を研究していた母に会うために 東京で飛行機をおりた。そのとき母と外食したなかで最も印象的だったのが銀座四丁目のどこかで夕食として食べたおでん屋さんだ。いつかは母も死んでしまうなどとは思いもしなかったころのことで、銀座やそこから近い築地水産物市場でお寿司やハヤシライスやおでんを食べながらも、周りに気を配ることもなかったので、そこがどこだか全く思い出せなかった。
母を失って初めて少し物心のついた私は、日本では短歌の大家として知られている母の詩心が、生涯を過ごした韓国では知られていないことが惜しくて、何冊かの本とその生涯を扱った映像作品を企画し、1年以上をかけて韓国と日本を往復して撮ったドキュメンタリーを完成させ、東京でその試写会を開いた。
ホテルに荷をおろし、後門を出るとそこが銀座だ。銀座に来たので、あのおでん屋を探さなければと思った。印象に残っているのは高級なその味ももちろんだが、こじんまりとした大きさの店にミンクのコートなどで着飾った人々がいたことだ。母が支払ったお金があまりに大金だったので驚いた記憶もある。ソウルでは、おでんは庶民的で安い食べ物とばかり思っていたからだ。
母との思い出も振り返り、おでんを昼食代わりにして6時からのドキュメンタリー試写会に行こうとした。
銀座四丁目がその方向なのか全然見当がつかず、あっちに行ったりこっちに来たりする間に時間ばかりが過ぎ、上下にも歩いてみてが、銀座の高い土地代を払ってやっていけそうなおでん屋は見つからなかった。華やかな銀座を二三時間歩いたが、心が焦るばかりで周りを見ても店の名前がわからないのだからどうにもならない。せっかく東京に来たのにこのままでは、母を知るたくさんの人に挨拶もし、日本語でスピーチもしなければならない試写会に遅れてしまうと思い、残念だがとりあえず何でもいいからお腹に入れようと、鈴蘭通りの奥にある何の変哲もないお店の暖簾をくぐった。
母との二人だけの思い出探しをあきらめ、当時位置や商号を覚えておかなかったことを後悔したが、アメリカでのよい話も多いのに久しぶりに会った母によりによって悩みごとの相談をしたことをさらに後悔した。
ところが、どうしたことだろう、全く期待もせずに店に入り、おでんが煮えているおおきなお鍋を目にした瞬間、ここがあんなにも探し求めたまさにその店であることを悟った。ああ、そうだ、やす幸だ。 母と一緒に座った場所が目につくと、私は母の手を離してしまった迷子のように泣いてしまった。娘があまりに必死にこの店を探すので、母が導いてくれたのだと思った。
母と二人で座ったおでんが煮えるカウンター席。あれをください、これをくださいと指差すものをまるい器においしそうに盛ってくれたあの席だ。こうして2005年にまた座ることができたが、その時点で母と立ち寄って25年が過ぎていたので、今から数えれば37年前ということになるが、まるで昨日のことのようだ。
生前、母は天皇から短歌の大家として皇居に招かれた。私が母亡き後一人でそのおでん屋を訪ねたのは、ソウルで日韓首脳会談があり、両国の首脳が母の平和精神について語った直後のことだった。もっと早くにそれが実現していたら、母もその光景を見ることができたのにという残念な気持ちがないわけではない。
そんなことを思いつつ、母の短歌を書いた色紙でもこの小さな店の壁に貼ってはどうだろうかと考えてみた。
私はその後、東京へいく用事があるたびごとに、思い出のおでん屋‘やす幸’に行く。母の面影に出会えるかもしれないと思うからだ。誰かと食事の約束となれば、そこで会うことにする。そこで上述したストーリーを聞かせると誰もが感動して味も一級品だとほめる。
それ以来、難しいことがあると、探しに探して落胆し放棄せざるをえなかったまさにその瞬間、にわかにハッピーエンディングが訪れた、そのときのことを思い出しながら、私は希望の姿勢をとって背をまっすぐに伸ばす。
人生の峠
やす幸のメニューとお箸のエンブレム – 東京 銀座 2015 5 大きなおでん鍋の中のおいしそうなおでん カウンター越しの厨房で十余名の料理人がおでんを煮ている やす幸2代目主人、石原壽 やす幸 - 東京銀座四丁目 鈴蘭通り 2015 5 15
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