2011. 3 .11
日本の底力と眼識
李承信 詩人 孫戸妍短歌研究所 理事長
少し前、サムスン重役との対話で「日本のソニーの重役たちはサムスン電子の最近の成果に打ちひしがれているようだ」との発言があった。私もサムスンにいたことがあり、韓国国民の一人としてその眩しいばかりの成果は大変誇り高く、嬉しくも思う。しかし、まるで韓日間の格差が一気に縮まったかのように、いや、韓国がとうとう日本に打ち勝ったかのような、韓国社会の一角の雰囲気には問題があると思う。私はむしろアメリカで長く仕事をしてきたアメリカ通であり、日本という国とその文化の深さを知っているわけでも、特別な愛情を持っているわけでもない。
しかし、母国語を奪われた帝国主義日本の強制占領期に生まれ、一行詩である短歌を学び、それを書き紡いできた歌人である母の本を翻訳出版し、関連映像コンテンツ等を制作しながら、その精神と価値を世界に知らせることを通して、日本とその文化、そして日本人をわずかながらも理解するようになった。日本人は教養のある勉強好きな民族であり、読書率が世界1位で、その繊細さと緻密さは並ぶものがない。そして日本を旅したことのある人なら誰もがわかるように、日本人は親切で犯罪発生率は世界最低だ。
しかし、私が何よりも驚かされるのは、日本人はほとんど全国民が詩人であるということだ。日本の詩の二つのジャンルである短歌と俳句を日本人は詠みもし書きもする。朝夕刊のある水準の高い新聞は、毎日詩にたくさんの紙面を割いている。TVをつけると有名人士たちが座を囲み、一つの題目をめぐって短歌や俳句を作る。
日本の皇室の新年始めの行事には“歌会始の儀”というものがあり、短歌の大家が宮中に招待され、天皇皇后両陛下の御前で選に預った歌が披講される。イギリス女王をはじめ、世界のどの国でも指導者が詩を詠み披講するなどという話は聞いたことがない。
最近、東京を訪問した際にも、“百人一首”という古代万葉集時代の短歌詩人100人の詩を一首ずつ冊子とカードにした歌留多ゲームがあり、小中学校ではその100首の短歌を覚え、互いに取り合う競技があり、正月には家族団欒の場で遊びとして楽しみながら、短歌が日本人の生活に深く根付いていることを知った。この万葉集と短歌は日本が誇る精神的財産であり、全世界が日本の高級文化として理解している。しかし、実はこれは1400余年前に百済人が日本に渡った際に伝えた韓国の詩なのだ。私たちがもともとは私たちの財産であったことにすら気づかなかった間に、日本はその花を咲かせて世界に伝播し、アメリカの大学やヨーロッパでは英語やヨーロッパの各国言語で、その節制された一行詩を学びもし詠みもしている。日本の高級イメージが増し加わることはもちろんだ。
その晩年にいたるまで祖国では誰一人として理解者を得られなかった孫戸妍歌人を、日本の天皇は“歌会始の儀”に短歌の大家として招請し、その読者たちは日本の青森県に歌人の歌碑を建てた。また、日本の総理大臣が頂上会談の演説で孫戸妍歌人の短歌を詠み、その平和精神を語るのを見ながら、私は日本人の底力について考えざるをえなかった。
基本に加え、実力と眼識を備えた日本に対し、今韓国が半導体等のいくつかの商品、それも私たちの独創的なものは少なく、日本に学びベンチマーキングして発展させただけのもので思い上がることは、明らかに考え直す必要がある。 日本国民の五分の三が百済人の後裔であり、韓国人との血のつながりがあるという説がある。私たちは経済的な理由や計算よりも、同じ血のまざった民族が多く住む隣国に真心と愛情をもって接し、学ぶべきは学ばねばならないと思う。常に勝ち続けてきたサッカーにおいても形勢の逆転があったように、まるで韓国が日本に追いついたかのように考えたり、ましてや日本の底力を侮るべきではない。
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