文化日報 コラム 2009年3月28日
恋愛経費
以前、あるアメリカの雑誌で、最近の恋愛経費は1979年に比べ460%以上が増加したと分析していた。
最初のデートからハネムーン旅行までの費用81項目について一つ一つ分析しているが、そのいくつかについてみると、デート初期費用のうち中間水準のディナー代は $9.95から$40に306%上昇、ミュージカル観覧は$19.90から$100に402%上昇、ビール1瓶は¢75から$3.50に400%上昇した。また、デート中間期にムード溢れるイタリアレストランでのランチは$14から$60に328%上昇、高級ホテルは$80から$350に337%上昇、結婚費用としてダイヤモンド指輪は1カラット$2500から$ 50,000に1810%上昇、血液検査$15から$60に300%、そしてバミューダー航空料は$120から$500に316%以上上昇した。今は恋愛にも以前より経費がかかるという話だ。
最近は数多くの各種統計に身近に接することができるが、このように人間の私生活のパターンを統計にしてみると、その奇抜なアイデアが面白くもあり、一方では物悲しくもある。こうして諸方面の専門家たちが統計をとり分析してみれば便利な点もたくさんあるのだろうが、私たちの生活が誰かの手のひらにあるようで味気なく面白みにかけて見えるのも事実だ。
人が生きていくというのは、あれこれと複合的なことなので、ある一面だけを拡大して決めつけるわけにはいかない。ましてそれが恋愛という人間の永遠の課題であってみれば、それは心の幸福というものを念頭におくべきもので、金銭だけで計算することのできない何かがあることを、恋愛経験のある人であれば誰もが感じていることだろう。
アメリカで二十余年間を私は勉強と仕事に生きた。そして、物質と資本主義の宗主国であるというアメリカは、私たちが想像する以上に遥かに純粋な恋愛をする国であり、人々であることを知った。
ハリウッド映画とアメリカのテレビドラマが全世界の恋愛する人々に影響を与え、それに関する統計と数字がメディアに出たとしても、私が実際に近くで交わり見てきた私の知るアメリカの多くの隣人たちは、比較的純朴で純然だった。
デートに始まり恋愛して愛し合う際に、彼らは金銭と経済と家柄を問いただすよりは、純粋な心と愛を問題にすることの方が多い。体面や人の目をそれほど意識しないせいか、驚くほど純粋だと言うことができる。
それ以前から私がよく知っている、より純朴でより純粋な祖国の隣人たちを常に遠く心にとどめてきたからだろうか、その後帰国して見た韓国とそこに生きる隣人の意識は驚くほど変わっていた。
GDPと不動産価格が急激に上がり、輸出と富が増えることにともない、大勢の人々の考えと意識が経済偏重に傾くようになったせいかもしれない。
もちろんキム・ジュンベのダイヤモンド(韓国版金色夜叉の登場人物、物質主義の象徴)が汚なかった時代は過ぎ去り、合理化され、ばか正直でただひたすら貧乏だったフンブ(正直者)よりも、むしろ富裕で家族をひいきするばかりのノルブ(自己中心)がもてはやされるという、価値観が変わり果ててしまった世の中、幼い頃にはまるで想像もできなかった時代になってしまった。
最近の若者はより鋭くなっているので、おそらくこんな統計など見なくとも頭で素早く計算するだろう。数字が引き合わず損する付き合いなどはハナからお呼びでなく、利得のための投資のみをしようとするだろう。いや、将来的に訪れる別れの日のことすら予め考えに入れて、気分に任せた乱費をひかえ、愛し合うとしても後で心に傷を負わないですむように、心と感情の投資をうまく調節するかもしれない。
しかし、私たちは本当の幸福のために、恋愛の経済性よりは、どのような恋愛なのか、それがどれほど真実で深いものであるのかという、恋愛の内容と形態により比重を置いて生きることを望んでやまない。
たくさんのお金をふりまいても相手の心をとらえることができず空回りする恋愛があるかと思えば、バス料金を惜しんで二人でずっと歩きとおしたけれど、それでも幸せだったという恋愛もある。貧しい恋人たちの昔話はいつ聞いても微笑ましい。
私たちは毎日毎日小さなことや大きなことにお金を使わねばならず、一日として金銭の支出、経済について考えない日はない。しかし、若き日の浪漫と人生の夢すら金銭が占める比重が大きいことを暗々裏に示唆する、こうした露骨な統計とその数字は、私たちの心を決して喜ばせはしない。
人生の終わりが虚しいものになろうとも、損をするだけの結果になっても、その道のりにおいては心に希望と夢を抱いていたい。たとえ将来その恋愛が水の泡に帰すことになるとしても、その恋愛における費用と時間と感情の投資は、決して損をするだけのものではなく、与えただけ与えられたのであり、それだけ人格と愛の成熟に寄与するものであるはずだ。
目まぐるしいデジタル時代、あふれる統計と情報、次第に狭まりゆく地球村、韓国、アメリカは言うに及ばず世界のどの国もすべてインスタント化していく、この隙間なき現代生活と文明生活の中で、馬鹿らしくもしみじみとした浪漫の味方をしたいと思うのは、いまやどこにあるかさえわからなくなった、過ぎし日の私たちのあの純朴な時代とその心が何よりも懐かしいせいかもしれない。
恋愛経費にみえる統計数値などなくとも、いくらでも美しく真実な恋愛が可能だったあの純朴な心と時代は、このようになってしまった私たちを、今どこで見つめているのだろうか。
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