Marc Chagall Flute Player Lithograph
2005 5 30
傷
去る五月の母の日、北岳山を見上げる景福高校の運動場で私の通う教会の運動会があり、リレー競争に出たところ、転んで右ひじと左の手のひらを痛めた。バトンを受けて次の走者にタッチするまでの間、体より心ばかりが先走り、コーナーを回るのに全速力で走ったことも問題だったが、コースに大粒の砂が敷かれ普通の運動靴では滑りやすい状態だった。
手足を痛めたことよりも、たくさんの人の目の前ですべって転んだことの方が恥ずかしく、それ以上に私のためにチームが負けたらどうしようという思いが先立ち、血が出ているのもかまわずどうにか走り切ったが、今週が過ぎても右手がずきずきして傷跡が残りそうなので、あの日勇敢にも志願して出場したことが悔やまれる。
よくよく考えてみると、私は幼いころからどうかすると転んでばかりいた。ひざにはかさぶたが絶えず、足の骨を階段にぶつけたときの痛みは今考えてもぞっとする。足の一部に血が出て幼心にも恐ろしくなり、そばにあった新聞紙を裂いて貼りつけたが、そのときの痕が今もかすかに痣のように残っている。
しかし、傷ついた私の感情、私の心に比べれば、そんなことは何でもない。 たくさんの歳月が流れ、すべて忘れたように思っても、今なお痛みの破片を感じるとき、どこか遠くから見えない感情と感覚が押しよせ熱くやりようのない思いが胸をかすめる。
目に見える昔の傷や痣はもう痛くも何ともないが、目に見えないそれらには今も胸が痛む。家族によって、あるいは人間関係によって受けた誤解や剣突や傷は、なぜにこうも胸の中に生き続け、うごめくのか。
つい先日、果てしなく寒かった日、長い冬が終わりさえすれば、天気が暖かくなりさえすれば息をつけると思っていたのに、世知辛い世の中と今だに心が完全には適応できない祖国での暮らし、そして繰り返し負う心の傷のために、私は季節の女王五月であるにもかかわらず、胸を病んでいた。
アメリカで産んだ息子もいたずらっ子だったころは、ひざ、足、腕、指にいたるまで何かといってはけがをし、血の出たところにかさぶたをつくっていた。子どものやわらかな皮膚に傷がつくことを見るのは、母として胸の痛む出来事だ。母となった瞬間から子どもに対する心配があれこれとつきまとうが、一番の願いごとはけがや病気をしないようにということのはずだから。しかし、子どもの心が傷つくのを見ることは、さらに胸痛む出来事だ。
言葉を覚えるさかりの三歳のころ、息子はソウルで何か月か韓国語を習ったことがある。アメリカに戻ってから幼稚園で教室の中で飼っているウサギを見て“トッキ(ウサギの韓国語)、トッキ”と呼びかけるのに、まわりの子どもたちには自分の言葉が全く通じないことに気づいた息子は、外国語を使う学校にはもう行かないと毎朝わめき泣くようになった。そんな息子を罰するかのように終日仕事をしながらも、私は毎日幼稚園に連れて行った。
息子が5年生のとき、再び母の仕事のためソウルに来て学校に通うことになった。地元風をふかす子どもたちを避け、何日間か社稷公園で一日中時間をつぶして家に帰ってきたことを知ったとき、そして、期待したようにはソウルで家族の面倒を見ることができず本当に淋しかったとき、韓国に連れてきたことをいつも申し訳なく感じた。そこで高校では改めてアメリカの寄宿舎 Prep School に入れることになったが、韓国におろしかけた根を再びアメリカに移さねばならない、その持て余すほどの心もとない過程を見つめながら心を痛めた。
そうしたあれこれのことを思うと、今も胸がつまる。けがをすることだけが傷つくことではないがゆえ。あのとき、日が沈む頃に社稷公園から帰ってきた息子は、「あいつらはボクと遊ぶのがいやなんだ」と言った。そのときはそうとしか考えられなかったはずであり、だからこそ心が傷ついたのだ。
あの日、運動会が終わった後、タンザニアでキリマンジャロ山を案内するマラソン選手でもあるアルフレッドが、私のひじと手のひらの血を見ると、「Sunshine、アフリカではけがをすると体がより健康になるといって、スポーツ選手は転んでけがをするほどにスターになるよ」と慰めてくれた。
そうか。我が魂の傷と心のつまずきも、私の心と魂をより丈夫に強くしようとする神様の御心だったのか。
悟るに遅い私は、ひじにけがをして初めてもう一つの大切な悟りを得た。
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